5 卑弥呼と三国志
小説の三国志が終っても三国志は続きます。
234年に諸葛孔明が五丈原で亡くなって4年後、魏の将軍司馬仲達は東へ向かって軍を進めることになります。
後漢の時代には遼東半島から現在のソウルに至る朝鮮半島の西側が中国の領地でした。それ以外は高句麗です。
政権が後漢から魏に移ったとき、遼東の太守公孫淵が独立を宣言したため、司馬仲達が征討を命じられたのです。
戦いは一年で終り、翌239年に卑弥呼の使者が遼東半島経由で魏へ行きます。司馬の軍が帰還するのと卑弥呼の使者が帰るのと、すれ違いだったでしょう。
敗れた公孫淵は南へ逃げます。司馬軍は追撃して斬ったとありますが、公孫淵を斬ったとは記されていません。司馬仲達は西の蜀軍との戦いに明け暮れて、東の公孫淵の顔は知らないはずです。
公孫淵は兵を率いたまま日本へ渡り崇神天皇になったと解釈すれば、つじつまが合うのです。
崇神天皇に関しては、古事記にも常陸風土記にもくわしく書かれており、渡来人という説もあります。
三代目は天皇を継がず故地に復帰したとのこと。崇神天皇の古墳がからっぽだったというのは骨も持ち帰ったということでしょう。
その頃の大陸は魏から司馬一族の支配する晋の国へ代っており、中国全土の平定に追われていたことでしょう。
三代目のもう一人二品(にしな)王子は、妻と共に信州安曇野の北方木崎湖の畔に来て暮らし、子孫の二科姓が多くいます。
公孫淵がなぜ「やまと」へ入ったかというと。九州は卑弥呼の邪馬台国(宮崎県の内)があり、九州の東半分を支配しています。西側は男王の支配地です。
鹿児島と四国の南側及び伊勢などの紀伊半島から関東までの太平洋沿岸は、ニニギノミコトの天孫族の支配下です。
北九州の伊都国(博多湾)と日本海沿岸を新潟まで、さらに瀬戸内海から関東の内陸部までが出雲王朝の支配地でした。
やまとの三輪山の大物主命(別名ニギハヤヒ)は出雲の代官です。なぜ代官が必要だったかは播摩風土記にあるように、やまとの神々が争ったとき出雲から出向くのは遠すぎるからでしょう。
やまとは軍事的には支配しやすかったけれど「たたり」を知らなかったのです。
呉は、台湾・沖縄・九州の西側から朝鮮半島までが貿易航路でした。
それゆえ、公孫淵は呉に援軍を求め、呉は船団を出したけれど戦いには加わらなかったとのこと。高句麗の史書には、卑弥呼と男王が争っているため、呉は朝鮮半島へ行きずらいともあります。
九州の東側は魏に通じ、西側は呉に通じ、三国志の延長線上にあったのです。
日本はまだ統一国ではありません。
2013.08.24
4 歴史に学ぶ経済
平家の財政破綻は前記の通りですが、鎌倉時代は蒙古襲来が影響したといいます。
戦いに出向いた地侍らは自費で参加しており、恩賞を幕府に求めます。幕府は戦いで得たものがありませんから、与えることが出来ません。
困った地侍らは幕府への上納を滞ることになります。
後醍醐天皇は幕府の弱体をみて、政権奪還の時期到来とばかりに全国に決起を呼びかけます。
平氏北条に迫害されていた源氏がこれに応じます。源氏以外にも応じた人はいますが、忠義のためではありません。自分たちの出世のためです。
室町幕府になりました。この幕府の大名になったのは結果的に源氏一色でした。大名は領地を与えられましたが、源氏の棟梁である足利将軍の領地はありません。当初は棟梁の権威だけで用が足り、財政・軍事は大名らの仕事でした。
ところが、地侍らが出世を考えるようになり、上へ成り上がろうとします。下克上です。革命と違って、組織をこわさずに地位を得ようというのです。
地侍は大名の領地を守り、経済・軍事を支えています。彼らが野心を持てば、大名はお飾りに過ぎません。困った大名は他家の兵力を頼ります。これは隣国との戦いの始まりです。
力のある大名は困っている大名を配下に集めて勢力範囲を広げます。こうして配下を多くしたのが細川と山名でした。
こうなると、地侍の考えが変わり、自分の主家を倒すのではなく、二派の集合体を戦乱に持ち込み、どさくさにまげれて自分の戦いぶりをアッピールしようと考えたのです。
将軍が止めるのも聞かず、こうして応仁の乱が始まりました。
京都を焼け野原にして乱は終り、復興は町衆のたくましさと成り上がり大名によって始められました。
完全な統治というものはありません。追いつ追われつが世の習いです。幕府は、力のある地侍に大名の名義を与えなければ治まらなくなったのです。
時の将軍義政は引退して東山に山荘を造り、文化人を育てます。彼等は茶道・花道・日本画・作庭等々の始祖になりました。
後世に続く文化の泉です。時代が変わろうと生活習慣が変わろうと続いているのはなぜか。それは、精神衛生という絶対美の追求だからです。
低辺からの下克上の気運はその後も続き、百年後には戦国時代になります。勝ち残った徳川氏によって江戸幕府となります。
江戸時代は知る人も多いので省略しますが、「財政の行き詰まり」が統制力の行き詰まりになり、地方の下級武士の結託によって維新が行われました。
このように、大きな政変には共通点があります。政府の財政難は捨ておき、低辺からの力が新しい時代を開くのです。
今は民間に軍事力はありません。しかし、経済を支えているのは民間です。昔も今も。 2013.04.03
3 平家の興亡
平家は源氏と肩を並べる武家だと思っている人が多いようですが、清盛の平家は武家ではありません。貿易商です。
当時の中国は南宋の時代で、平家は南宋との貿易で富を得ていました。伊勢平氏と呼ばれたように伊勢の港町が本拠だったのです。
海に出れば海賊がいます。なんと、自分らも海賊まがいのこともやっていたようです。
保元・平治の乱で源氏と戦いますが、兵は海賊です。清盛は指揮をするだけと思ったらよいでしょう。海賊といえども、宮中警護に当たるときは身成を良くしないはずはありません。
富の力で宮中に近づいた平家です。清盛は貨幣経済の世の中にしようと、宋銭を大量に輸入します。日本で造るより輸入した方が手間がかからないそうで、輸出物は奥州の砂金です。
この時代に金売り吉次という商人が登場しますが、馬百頭に馬方百人・護衛の侍百人という大編隊を想像して下さい。山賊が出るからです。
奥州の砂金は平家屋敷に届けられ、奥州へは京都の物産が届けられます。
そのころ全国的な飢饉があり、困った公家らは領地を担保に清盛から宋銭を借ります。不作が続けば借金が返せず領地を失うことになります。
公家に渡した貨幣は生活費で使ってしまい、清盛のところへ返って来るわけではありません。手に入れた土地は不作ですから収益になりません。それに加えて宋では銅銭が無くなり紙幣を造ることになったという。
くわしくは山本七平著「日本人とは何か」を参照して下さい。
清盛一代たった20年の栄華です。
清盛は貿易を有利にすべく、福原(今の神戸)に港を移します。何を輸入しようと考えたのでしょう?
領地を失った公家が細々と生きられたのは、平家を嫌う地侍が秘かに米を届けていたからとのこと。
公家らは窮状を後白河法皇に訴えます。このときから源氏との戦いが始まりますが、財力に窮した平家は軍勢を集められず、港の海賊衆にさえ逃げられたとのこと。
あとは知られる通り華麗に散って行くだけです。清盛の子や孫は公達(きんだち)と呼ばれ、公家の文化や教養を身につけていました。公家の暮らしがあこがれだったのでしょう。
されど、平家が模したのは、祈りを失った平安貴族の姿だったのかも知れない。
学ぶべきは清盛の貨幣経済です。 2013.02.28
2 原発の危機管理
原爆と原発が同じだとわかるまで66年かかりました。日本人は気の長い人が多いようです。
溶けた燃料がどこまで落ちているか調査出来ないと言っている。
メルトダウンすれば温度が何度になるか、容器は何度で何時間絶えられるか、計算すればわかるでしょう。たぶん公表出来ないはず。
平和利用が悪いのではない。消せない火を着けてしまったのです。
「安全」と「危機管理」がどのようなものか、私も裏情報を聞くまで知らずにいました。
核燃料を原爆に作り変える日数は1カ月だそうです。危機管理はテロ対策でした。テロリストに核燃料を取られなければ安全ということです。
世界中の各原発に監視カメラがあり、オーストリアのウィーンでモニターを見ている。原発には外国人の監視員が1人ずつおり、ウィーンのモニターで異状を見つけると、監視員に通報があり、監視員は現場に駆けつける。
ウィーンには国察原子力機関があり、原発を持つ国から特任大使が派遣されているという。福島原発の事故のときには日本の大使がウィーンからテレビコメントしていました。
燃料廃棄物の処理にもテロ対策に気を遣っているとのことで、このように安全は確保されており、地震や津波は想定外だったのです。
だから、安全委員会も安全・保安院も総理官邸も、放射能について勉強する必要はなかったのです。 2013.01.01
1 だまされないために
だまし絵というのがあって、見る人の目をだましてしまう絵のことですが、同様に、意図的にまぎらわしい言葉を使って国民をだましてしまう例があると思って下さい。
それは、願望によって解釈してしまう心理を利用したもので、群集心理をくすぐるとより効果的になります。官僚は「国民はバカだから、わかりはしない」と言っています。賢くなってください。
学校教育の弱点として読解力の弱さが言われていますが、クイズのような知識では読解力は育ちません。
この言葉の真意は何だろう、という疑問を持たなければいけないのです。読解力以前に読書力をつけなければいけないのかも知れない。
一例をあげます。
邪馬台国はどこか、と言って意見が分かれています。魏書東夷伝を読むことが可能でありながら、読んだ人でも解釈が分かれるのはなぜ。
これが読解力の差ではないかと思う。
一回読んで理解できるのは、水行何日陸行何日という数字です。これを基に、どの辺まで行けるか推定しています。しかし、中国人の数字を鵜呑みにしてはいけないのです。
二回読んで理解出来るのは、卑弥呼の使者が鏡をもらって来たということです。それで、鏡が発掘されると「それ卑弥呼だ」と言う。
三回読むと、沢山の国々の名前があって、邪馬台国へ行く途中の国々であろうと思うでしょう。
四回目に、国々の最後に「奴国」という名があるのが気になる。金印出土で知られる奴国です。ここまでが卑弥呼の支配する国々だというのです。
さらに、卑弥呼は隣国の男王と争っていたという。相手国はどの位置にあるのか。
博多湾に港を持つ伊都国は出雲の支配下にあり、卑弥呼の代官所もあって、港を共有していたという。出雲の支配地はどの範囲だったのか。などの疑問が出て来るでしょう。
これらを裏付けるのは朝鮮半島の歴史であり、日本の古代史や風土記です。
歴史の解釈はいかようにも出来ますが、事実は一つしか無いはず。願望で事実を誤認してはいけません。2012.11.03
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