笙の研究 U

 

 11,青石の塗り方は表が先か裏が先か
 「表が先に決まっているじゃないか」と言う方は先をお読みいただかなくてよいです。私の体験を記すまでのことですから。
 笙を習っているときに、先生が調律の話をして下さり、「青石は裏から先に塗るのだよ」と言ったのを覚えておりました。私の聞き違いだったことが後でわかったのですが、その時は調律など遠い話と思っていい加減に聞いていたのかもしれません。
 独学で調律を始めまして、先生の話を思い出し、青石を裏から塗りました。透き間を埋めるために何回か筆を加え、ほぼ乾いたとき表を塗ってみました。
 ところが、なま乾きだと表の水分で透き間の青石が解けて、表の青石が裏へ流れてしまいます。乾くまで待てばよかろうと、2〜3日間をおきましたら、今度は乾きすぎて透き間の青石が水気をはじくものだから、その部分だけ塗り残ってしまいます。
 あれこれやってみた結果、ほぼ一昼夜(約24時間)後に表を塗ればよいことがわかりました。
 しかし、それでよいものか自信がもてず、調律の出来る人に聞いてみました。「表が先です」「えっ!」複数の人がその答えです。
 先生に聞いてみました。「表が先だよ」

 表を先に塗った方が仕事は早いです。その日のうちに両面塗れますから。
 どちらが綺麗に仕上がるかというと、裏から先に塗った方が綺麗に出来ました。もちろん、私の技量としては、ですよ。
 音はどうかというと、変わりない気がします。
                      2001.9.28

 12,保温器の使い方
 保温器で失敗した例を耳にします。
 私の体験や、ひとの話などから、保温器の使い方を説明しておきます。
 私も最初はそうでしたが、笙を暖めるという作業が何ともじれったくて、便利な方法はないものかと考えたものです。で・・、それを解決したのが保温器だと思ってはいけません。保温器は、便利な面と不便な面と両方備えているのです。

 劇場は火気厳禁のところが多いです。控え室で電気コンロを使うのを大目に見られる場合もありますが、ステージでは保温器を使います。
 控室でも保温器以外は許されない劇場もあります。その場合は、10分ほど暖めたら笙を抜き出して保温器の上に横にして乗せます。(多少でも竹が暖まるように)。5分ほどしたらまた差し込みます。というくり返しで暖め、15分以上差し込んだままにしてはいけません。密閉状態になって熱が上がり、蝋が溶けてしまいます。(室温によって時間差はあります)
 蝋が溶けてリードがズレるのは余程長時間としても、オモリの形がゆがんだだけで音程が変わります。
 だから、ステージで曲の間に差し込んでおく程度に心得て、お稽古に使うものと思わないで下さい。
 保温器以外の暖房器具でも、うっかり時間がたつのを忘れて失敗した例は耳にしますから、笙を暖めるのに手抜きは考えない方がよろしいと思います。
 暑くても、じれったくても、慣れてしまえば何でもなくなります。笙を吹く人の風流と思って下さい。
                     2002.7.14
13,音のバランスあれこれ
 私は画家でした。
 42年絵を描き続けて、個展を34回開き多くの愛好者を得ました。その間、音楽にも拘わっておりました。若い頃はバイオリンを奏いて仕事をしており、結婚してからは雅楽に接することになりました。
 画家でしたと言うのは、健康上の理由で個展を続けるのがつらくなったからです。絵を描きながら笙作りも覚えましたので、今は笙を作っています。

 絵と音楽は、共通点もあり相違点もあります。この頃になって、まったく同じ点で苦労しているのに気がついたのです。絵は色で苦労しました。楽器作りも色で苦労します。音色です。
絵には形のバランスと色のバランスがあり、楽器には型体のバランスと音のバランスがあり、音色があります。
 バイオリンの場合は、4本の絃の音のバランスが悪いと気分が良くありません。4本の絃の音量が一定でない楽器もあるのです。良い音色がするのに残念で、絃を替えてもどうにもならず、本体に問題があるのでしょう。
 
 笙も、竹によって音量や音色に違いは出ますが、リードに手を加えたり舟底に蝋を詰めたりして何とかバランスを保つことは可能です。ということは、良いリードだからどの笙にも合うというのではないのです。
 竹は一本一本性質が違います。太さをそろえ節をそろえても、繊維の詰まり具合は削ってみないとわかりません。だから、竹に合わせてリードに手を加えなければならないのです。この、手を加えるという過程は、曲を吹いては直し吹いては直しということです。
 直すためには、リードをはずして青石を洗いオモリを取り、どのくらい削ればよいか見当をつけて削り、またオモリを付け青石を塗り調律して吹くことになります。削り足りなかったらまた削り直します。もし削り過ぎて他のリードより音が大き過ぎたら、リードをはずして舟底に蝋を詰めます。リードの片寄りも吹きながら癖を確かめます。
 このようにして音のバランスを整えますが、これらは私のやり方であり、よその工房については聞いておりません。私は、出来上がった笙を吹いて、微調整とお稽古を兼ねているわけです。でも、竹やリードが振動を覚えるには時間がかかりますから、買い求めた人が半年か1年吹いてから、調律するときにリードに手を加えることが出来たら良いと思うのです。
 ただし、音のバランスと音色は別です。
                    2002.9.14

 
14 音の色あれこれ
 色好みというと、色情を連想する人もいるでしょうが無縁ではありません。芸術の根底にあるのは情欲です。情欲を美化したり昇華したりして芸術性を高めるのです。そっちの話は得意とする作家におまかせするとして、好みは生活感情と切り離せないとだけ言っておきます。
 生活感情は生活の場において育つわけで、日本における貴族の生活の場は奈良京都でしたから、奈良京都が影響していることになります。絵で言うならば、『大和絵』が育った背景がそこにあるわけです。喜怒哀楽の感情も気候風土の中で生きて来たことになります。 黄河の畔で育った雅楽と日本で育った雅楽の音色の違いは、そのようなものでありましょう。京都で育ったからといって、公家と武家と庶民とでは生き方が違いますから、色に対する感じ方も差が出ます。雅楽の音色は、当時の貴族が求めた音の色ということになります。
 今、私達が昔の貴族が求めた美に心引かれるのも良いではありませんか。

 作る過程で昔と今は条件が違います。
 竹は煤竹が良いというけれど、茅葺き屋根が無くなっては手に入りません。自分で燻すひともいますが、それも一つの方法でしょう。 煤竹ほどに色の着いた良い音のする笙を持っている人がいて、元は白竹だったと言うのには驚きました。炭火を使っていると、数年もすれば色が着いて来ますから、やがて煤竹になるのかも知れません。
 竹の太さ長さも音色に影響しますが、作る人の好みによるようです。京都の竹平商店には、笙用の白竹が、10mm,11mm、12mmと太さを分けてストックされており、作る人によって好みの太さがあるとのことでした。
 リードは、中国製や韓国製のサワリが良いとのことで、現地へ出向いて買い求めるという話は聞きます。サワリという合金は日本でも作ることは可能でしょうが、手造りにこだわるところをみると、叩いて鍛えるのが必要なのでしょうか。
 蜂巣には水牛の角が良いとのことですが、古管の調律を頼まれたときに見るくらいで、今はすべてプラスチックです。
 水牛の利点は、暖めると膨張して根継をしっかりおさえるのだと聞きました。水牛の角には弾力があり、暖めるまでもなく根継が密着し易いです。だから、穴と穴との間の壁を薄くすることが出来ます。プラスチックだと、ある程度の厚さにしないと欠けます。
 音に関しては水牛の角とプラスチックに差があるとは感じられないし、ひとからも聞いたことがありません。
 青石は国産の方が良い音がすると聞きましたが、今は輸入物しかありません。私は、何個か買い求めて使っているうちに、それぞれに個性があるのがわかりました。今は、4個をブレンドして使っています。サワリもそれぞれ個性があるので、サワリによるブレンドを考えているところです。
 良い材料が手に入らなくなっても良い音は追求したいわけで、それが「可能性の追求」でありましょう。
 さて、材料の苦労もさることながら、どのような音が理想なのか。
 ある楽師の書いた本の中から要約してみます。
 「瀧が落ちる音のなかに聞こえる、ちーッという堅い音」
 「蝉がじェーじェー鳴いているなかに聞こえる、ちーッという堅い音」
 たしかに蝉のコーラスの中に、そのような響きを感じます。本の著者は、良い響銅と作る人の腕といいますが、どのような削り方をすればそうなるとは書いていない。
 私が思うには、蝉やこうろぎが音程を確かめ合って鳴いているわけではないから、不協和音が共鳴して倍音となって「ちーッ」という音になるのではないか。笙の和音で通奏音になっている行と七の音に意味があるのではないか。行と七の響を整えてからそれぞれの音を重ねていったらどうか。などと研究しています。
                   2002.10.14

 15 艶出を塗った笙

この頃、竹に艶出(つやだし)塗料を塗った笙を見かけることが多くなりました。
 安価な笙を求める人のために、少しでも手間を省こうと考えてのことでしょう。
 本来は、竹の表皮を削って研きをかけるのですが、竹を研くのは大変手間がかかるのです。竹の表皮を削るのは、竹が吸収した息の湿気を発散しやすくするためで、艶出を塗ったら竹を削らないのと同じです。
 でも、よく暖めて乾燥させれば済むことです。
 艶出を塗った竹は、何年たっても色が変わりません。白竹のままでよいと思えば、それはそれでよいのです。
 竹に色を着けて艶出を塗ったのもありますが、それもそれなりの美しさでよいのです。

 問題は、竹が強度を失わないためには油気が必要だということです。
 表面をコーティングしてしまうと、手の油がしみることがないため乾燥だけが進みます。竹が油気を失うと、竹本来の柔軟性を失います。

 笙によっては、枕がきつくて竹が外側へ反ってしまっている例があります。調律のついでに直してあげようと思うのですが、枯木のように固まっていて直すことが出来ません。

 そこで、竹に油を着ける方法として。
 胡桃半コ分を古ハンカチなどに包み、テルテル坊主を作ります。胡桃の部分を軽くかじると油がにじんで来ます。竹を一本づつ抜いては、側面にこすり着けるのです。一年に一度くらいでよいでしょう。
 コーティングしてなくても、手の油の少ない人はおためし下さい。
 竹を長持ちさせるためにも、響きを良くするためにもおすすめしたいと思います。
                 2004.4.16

 
16 一本だけ響き過ぎる場合
 一本だけ響き過ぎてバランスが悪いので、何とかならないものかと考えました。
 竹の内径が、他の竹よりも太いのです。
 舟底に蝋を詰めてもダメ。オモリの位置を変えてもダメ。どうにも困りました。

 竹を選ぶときは、外見の太さと節を揃えますが、内径は所定の長さに切ってからでないとわかりません。組む段階で内径を見て配置を考慮することもありますが、竹を取り替える程ではないのです。
 竹は、内径が太い方が響くに決まっています。しかし、竹は一本一本性質が違っており,内径の太さだけが響きに影響するとは限りません。バランスを整える段階でリードに手を加えたり、舟底に蝋を詰めたり、オモリの位置や青石の塗り方なども考えるわけです。 それらの上で、竹の内径の太さにどう対処すべきか考えるところに来ました。

 トランペットに弱音器を着けるのを思い出しました。竹の先に弱音器を着けたらどうであろう。
 お寺の友人に水塔婆(みずとうば)というのをもらっていたのを使ってみることにしました。木の板で一番薄いのはこの水塔婆です。墓で使う塔婆の形をした30pくらいの板です。
 それを3pの長さに切り(これくらいでどうであろうというだけです)、幅は3.5pくらい(竹の先に入れると一巻半くらいになり)他の竹より少し狭い程度。
 小さな空き缶のふたで煮て柔らかくし、丸エンピツに巻いて糸を巻いて乾かす。
 乾いたら竹の先に差し込んでニカワで接着するだけ。
 具合よく響きをおさえることが出来ました。
 
 逆もあるわけです。
 つまり、竹の響が悪い場合。リードに手を加えてもダメ。リードを取り替えてもダメというときです。
 竹の内径が細くないか、竹の肉が厚くないか他と比べてみます。ほんのわずかでも細いならば、内側を丸ヤスリで削ってみる。(丸棒に紙ヤスリを巻いてもよい)
 筒先から5〜6pくらいでよい。(竹の長さとの比率もあるでしょう)
 音を出して確かめながら削るとよいのです。
                     2004.5.11

 
17 笙の響き具合
 日本雅楽会の物知り先輩が、口癖のように言うのです。「自分の耳元で大きく鳴っているのが良く響く笙だと思うのは間違いで、自分の耳には聞こえなくても遠くへ響くのが良い笙なんだ」と。
私の作った自分用の笙を、友人が持って行って合奏をしたところ、「自分の音が聞こえない。吹いているうちに息が足りなくなってしまう」と言うのです。
 私は、その笙で合奏練習もし、演奏活動もして、何の苦もなく吹いていたのですから、どういうことだろうと考えてしまいました。そして、思い当たったのが先輩の言葉です。 友人が先輩の言葉を証言してくれたことになります。自分の耳に聞こえないものだから、強く吹こうとして息が足りなくなったのです。
 私の場合は、リードに手を加えながら、だんだんそのような笙になって行ったわけで、いきなりだと面食らうでしょう。
 しかし、笙という楽器の性質を考えていただけばおわかりのように、篳篥の音を聞いていないと付いて行くことが出来ません。そして、耳で合わせるだけでなく、呼吸も合わせなければ手移りを揃えることが出来ません。 つまり、篳篥と呼吸を合わせていけば、自分の音が聞こえなくても付いて行くことが出来るのです。そして、このように吹いているときに、笙の音が自分の耳元を離れて、篳篥の音を包み込むように鳴っているのを感じるのです。
 篳篥の音を笙の音が包み込んで天空へいざなって行く、その先導をするのが龍笛なのだ、という気がします。
 篳篥の音が笙の音に包まれてくれないと気分は良くありませんし、龍笛の先導が用をなさないと具合良くありません。
 笛の音頭が先導であるのは誰にもわかりますが、音頭が終わりました、あとは皆さんでどうぞでは良くありません。
 笛吹の友人が言うことに「付け所から小拍子二つくらいまで笛の音頭が引っぱって行かなければいけない」とのこと。そのように心得ている人と一緒だと、付け所でもたつくことはないのです。
 篳篥は、リードが作れるようになれば良い音が作れるわけです。
 しかし、笙の場合は自分でリードを作れる人は限られており、調律が出来るようになるのも容易ではありません。購入した楽器で納得する場合がほとんどでしょう。納得できずに私に相談する人には、リードに手を加えることもあります。
 物が振動するには振動する条件があります。音が出るには音の出る形があります。音は弁の弾力によって変わります。弁の弾力は弁の形によって変わります。どのような「しなり具合」によるか、だと思います。
 その「しなり具合」ですが、釣竿にたとえるのがわかりやすいかも知れません。釣竿のしなり具合で糸が遠くへ飛ぶのです。
 音もリードのしなり具合で遠くへ飛ぶのです。そして、竹が振動を増幅するのです。と、私は考えるのですがいかがでしょうか。
 名器の吹き心地は、しなやかで弾力があり軽く吹けます。私もそのように追求しています。
                      2005.3.7

 18 私のリード




音の高さ=私は全部1音高



 a 部分は一般には大簧2〜3枚を残すのですが、私は全部残すようにしています。大簧も長めに残さず厚みで残します。



というように山が小さくなって行く感じです。大簧だけ別扱いという考え方をしません。これは私の場合ですから、違うと言う人もいるでしょう。
 先端を残す理由
1,吹いてみて、リードをもう少し削りたいときに先端の残りが無いと細工しずらいから。
2,オモリが小さくて済む。弁の振動をさまたげないためには、オモリの接着面積が少なく先端に近いほど良いのです。さらにb 部分のしなりを妨げないためにも、オモリを先端に近づけます。
 b ・c 部分をかまぼこにするのは腰を弱くしないためであり、これは岩波先生に教わりました。ただし、小簧2〜3枚はb 部分までかまぼこにすると腰が強すぎるので平らに削ります。
 b 部分の削り具合で音色が変わります。しなやかでしっかりしていて、スナップが利くようでないと「蝉の声」にはならないのです。 弁のしなり具合は、針で押して曲った形と指の感触で確かめます。同時に、音程や響き具合も爪で弾いて確かめます。チーンとかピーンという音でなく、ヂーンとかビーンという濁音に感じられるまでb 部分を削ります。
連弾した方がわかりやすいです。
 チーンがヂーンになるときは、マラソンの折返し点のような変わり方です。だんだん近づいて、フッと変わるような気がします。
 折返し点の前のリードを竹につけた場合は、音がこもった感じがします。折返し点を過ぎたリードがフッ切れた感じの音になります。 ただし、例外はあるようで、合金の混ざり具合か鍛え具合の差かわかりませんが、竹に付けてみないと答えになりません。
 吹いてみて、もう少し軽ろやかな音にしたいと思ったらb 部分を、腰が強過ぎると思ったらa ・c 部分を削ってバランスを整えます。 音の高さ
 全部1音高にしている人もいますので、私もそうしました。人によっては〔一乞〕を1音半高く、〔エ一乞〕を、〔几エ一乞〕を1音半高くなどありますが、〔几〕は大簧扱いにしない方がよいと思います。
 大簧は鳴り過ぎない方が よいという意見もあって高めに設定しているのでしょう。

 リードの長さ
 私のところへ調律に来た笙の中から、一番長いのを参考にしました。リードが長い分だけ削りが少なくても音を下げることが出来るからであり、かつ、竹に合わせているつもりです。リードと竹のバランスもあるわけですから。ただし、弁が短いと余韻がなくなり蝉の声になりません。
 コの字の透間
 広過ぎると青石で埋めるのに苦労をするし、振動も青石で重くなってしまう。さりとて、狭過ぎると摩擦部分が接近しすぎて、これも振動が重くなってしまう。



 弁の先端の角に出っぱりが残っている場合は、小さな砥石で平らにしておかないと、青石を塗ったとき振動を悪くするような気がします。
 最後に
 削る過程で生じた弁のゆがみを直すのですが、爪で十ぺん以上弾いていると元のゆがみに戻ってしまうから、何度も矯正し直しておかないと片鳴の原因になります。


 片鳴で、表から押してもまた戻ってしまう場合はA 図の曲り方。内から押してもまた戻ってしまう場合はB 図の曲り方をしているのです。図は極端に描きましたが、よく見ないとわからない程のゆがみが影響しているのです。                                                       05.4.10  

19 リードの振動と笙の奏法
 先に釣竿の話をしましたが、今度は野球のピッチャーの話をします。
 ピッチャーは投げるとき体を後ろに反らし、投げの動作に入ると肩が前に出て、肘が前に出て、手首が前に出て、ボールを握った拳は手首より後からついて行きます。
 このような動きはテレビのスロービデオで見ることが出来ますし、手首のしなり(スナップ)が大事なのはおわかりのことでしょう。ボールを握る指はリードの説明には関係しませんけれど。
 釣竿の動きも同じで、竿の先は糸を引っ張りながら後から進み、手を止めると先端は糸を飛ばしながら前方に曲がります。糸をはずして竿だけを振ると、先端は手元より遅れてついて来る連続運動になります。
 さてここで、手首だけ早く振ってみてください。その早さで二の腕も前後させることが出来るのでしょうか。
 笙のリードも、先の方のしなやかな所だけ強く振動させれば、その動きに厚みのある部分はついて行けません。笙の吹き始めは静かに息を入れ、音が出るに従って強く吹くのは「先端をゆっくり動かしながら、その動きが厚みのある部分へ伝わって行くようにしているのです」
 今にして思えば、このような説明を日本雅楽会へ入ったときに大先輩から聞いたような気がします。吹き方だけ身につき、説明はおぼろになっていました。
 リードの揺れも、釣竿の揺れと同じように先端は元より遅れて動いているのです。もちろん、そうなるように作ってのことですけれど。また、先端が遅れて動くことによって息を替えても連続音になりやすいのです。
 笙とハーモニカの奏法の違いは、このようなリードの揺れ方の違いによるのだと思います。だから、ハーモニカのピアニシモは音楽として求めるピアニシモであり、笙のピアニシモはリードを振動させるためのテクニックです。
 ハーモニカのリードは平ですから、先端の揺れがそのまま元の方へ伝わると思いますし、製作も一律で済みます。しかし、笙のリードは削り面が傾斜していますから、傾斜のつけ方に作る人の個人差が出ます。傾斜の差が少なければ、音も奏法もハーモニカに近くなります。
 私は、丸一年毎日毎日リードだけ削っていたことがありました。吹いては削り吹いては削り、ほかの仕事は何もせずに。そして思い至ったのが物知り先輩の言葉です。
 「吹き始めは軽くて、吹くに従って抵抗感が増して来るのが良いリードであり、吹き始めに抵抗感があって、強く吹くところで抵抗なく吹けるのは良いリードとは言えない。」
 初心者にとっては後者の方が吹きやすいので、その方が良いリードだと思い込んでしまいます。もちろん、後者も笙の音はするのですが「蝉の声」がするかどうかというレベルの差があるわけです。
 篳篥のリードは見せてもらうことは出来ますが、見て楽しむ性質のものではありません。しかし、作る人の経験の差によって見た目の美しさに格段の差があります。それがそのまま音の美しさになっています。自分で吹きながら修得した成果でしょう。
 笙のリードは外からはまったく見えませんし、吹く人も自分で調律しない限り、リードの裏側を見ることはありません。吹く人は吹くだけ、調律をする人は調律をするだけ、リードは作る人まかせ、というのがほとんどでしょう。
 蝉の声を求めて
 リードの試し吹きをするとき、単音で吹いて「あゝ、鳴っている」だけではダメです。笙という楽器は、基本的には単音で吹く楽器ではありません。なぜならば、単音では蝉の声にならないのです。
明治時代の多忠龍楽師の書物に「蝉がジェージェー鳴いている中にチィーッという高い音が聞こえる。それをねらって作る」と記してあります。蝉の声はジェージェーで、それではないチィーッという高い音だと言うのです。つまり、実音ではなく共鳴音ということです。
 だから、笙も実音ではなく共鳴音を追求しなければいけないはずです。
 七・行の音がなぜ通奏音なのか、なぜすべての合竹に七・行が含まれているのか、ということを考える必要があります。この七・行が蝉の声を誘因するに違いないのです。
 蝉の声を求める手順は、まず「七」の音が「湿った音か、乾いた音か」「籠もった音か、フッ切れた音か」を追求します。湿り気のある音は篳篥や龍笛にまかせて、笙の音は夏の青空に響く蝉の声が理想なわけです。
 次に「七と八」の音を合わせて吹き、同時に鳴り出すようにするのがバランスです。バランスが良ければ、静かに吹きながら耳を澄まして聞きます。七の音でもない八の音でもない別の音が「チィーッ」と鳴っていたら、それが蝉の声です。聞き分ける方法は「八」を鳴らしてその音を意識しながら「七」を加える。「八」より高い音が鳴るかどうかということです。
 聞こえなければ、まだ「しなり」が足りないのです。空鳴を気にすることはありません、蝋を詰めればよいのだから。こんなに薄くしてよいのだろうかと思ったら、弁の長さや巾を気にしてみることです。
 次に、「七と行」のバランスを合わせ、あとは七・行を基準にバランスを整え合竹で吹いてみる。
 蝉の声といえば謎めいて聞こえますが、共鳴音の一種だと思います。昔の人は、蝉の声に聞こえるような共鳴音を求めたのです。私も追求の結果わかったことで、二つの音のほかに「第三の音」が鳴り出すという原理はわかりません。
 人の耳には単音の方が聞き取りやすく、複数になるとわからなくなってしまう。わかる人は聞き慣れたのです。
 さて、リードを作る以前に大切なのはサワリです。平安時代の人達が、なぜ日本製のサワリを作ろうとしなかったのか残念に思います。日本製のサワリは、個々には研究したり作られたりしているようですが、力を合わせて普遍的なものを作ってくれることを期待します。
                            2005.5.8
 
20 良いリード
 雅楽の仲間にコーラスをする人がいて、指揮者の言葉を聞かせてくれました。
 「声が溶け合っていれば自分の声は聞こえないものだ。自分の声が聞こえるのは地声が出ているのであって、発声を直さなければいけません」
回りの人の声は聞こえると思います。でも、その人達も自分の声は聞こえないのです。
 笙も同じです。それは別項で記した通りですが、音が溶け合うとはそのようなことなのです。音が小さくて聞こえないのではないし、無音になるというのでもありません。自分の鼻先で鳴っていないで、耳を澄ませば頭の上の方で鳴っているのがわかります。
 コーラスに於いて真っ先に解決すべきことが、笙にとっては非常に困難な課題になります。
 一つは、自分でリードを作れないこと。もう一つは、笙という楽器に対しての先入観が捨てられないことです。
 まず、初心者は自分の音が聞こえないと不安に思えるのです。吹いている実感がつかめないのですから。そして、自分を主張したい人にとっても不満に違いありません。
 コーラスは個人を主張する音楽ではないし、雅楽も同様です。洋楽には個人を主張したい人のためにソロの曲があります。雅楽もこの頃、ソロ活動をする人が多くなりました。
 コーラスを楽しむ人も雅楽を楽しむ人も、自己主張がないかと言えばそうではありません。ソロも出来るのですから。
 自己主張をしながら「和」があるのです。誰かに従うだけというのは「和」ではなく「従」です。
 雅楽は「主管に合わせなさい」と言います。主管に合わせるのは「従」ではなく「合」です。実力が身についていないと合にならず従になります。
 話し合いも「合」です。話し合いにはルールが必要で、ルールに従ってテーマをデスカッションして統一見解を出します。
 次に、笙を作る人の課題です。
 笙の「和音」を「合竹(あいたけ)」といいますが、「合」ですから共に出る音が対等でなければ、つまりバランスが良くなければいけません。しかし、バランスを整えようとすれば、製作日数が二倍必要です。
 さらに、自分の笙の音が聞こえなくなるという現象を理解するためには、作った人も合奏に参加してみないと実感がつかめないでしょう。これも厄介な課題だと思うのです。
 吹く人が、自分でリードを作るのが理想です。
                   2005.5.28
  


     







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