コ  ラ  ム  Ⅲ
 

 

  
41 金融危機に出合って
 気がつく人はいなかったのか、警鐘を鳴らす人はいなかったのか、との声もあります。警鐘を鳴らす人はいました。しかし、聞く人はいなかったのです。
 世の中には、しっかりした人が多いから自分の主張ばかりして、ひとの話は聞こうとしません。
 テレビの討論会を見てどう思いますか?ひとが話している途中から口を挟む人が多いでしょう。司会者でさえ発言者を指名しておきながら口を挟んで邪魔をしてしまう人がいます。結極、自己主張ばっかりで知恵が生まれません。
 振り込め詐欺は無くなるどころか多くなっているという。おまわりさんが個別訪問をしてビラを配っています。にもかかわらず無くならない。「自分はしっかりしているからだいじょうぶ」
 飲酒運転はいけません。にもかかわらず事故は無くならない。事故を起こす瞬間まで「自分はしっかりしているからだいじょうぶ」
 政府が言います「貯蓄より投資」――だから、銀行も貯蓄より投資をするようになりました。
 投資とは何。小泉元総理が言いました。「投資なんだから儲かるときもあれば損をするときもある」これ程はっきり言っているのに‥‥。
 「リスク」は危険が伴うという意味で、「バクチ」のことです。バクチにイカサマは付きものです。イカサマをするか見抜くかどちらかです。私が儲けたと言うはずがない。
 政府もギャンブラーだから、ギャンブラー仲間に手を差しのべています。
 警鐘は聞く耳を持たなければ聞こえないのです。        2009.1.15

 
42 投機と投資
 専門家の解説だけではわかりずらいでしょうから素人の私が一言。
 投機とは
 相場(物品の取引価格)の変動によって生ずる差額を利得とする取引。英語で(スペキュレイション)
 先物買いと言って、昔は相場師と呼ばれる限られた人達のすることでした。リスクが伴うマネーゲームです。
 投資とは
 事業に資本を出資して利益の配当を得る。英語で(インヴェストメント)
 これが銀行本来の仕事で、預金者の利子に変動はあっても元金は保証されていました。
 投資信託とは
 投機と投資をミックスしたシステムで、信託銀行と呼ばれる銀行も出来ました。アメリカで考えられ世界に広まったのです。ウォール街がそのコントロールタワーでした。
 信託とは「信じて託す」のであって、信じられない結果もあるのです。
 株式市場とは
 昔は投資を扱う市場だったと思うのですが、いつのまにか投資信託の市場になり、ほとんど投機です。
 政府が「貯蓄より投資」と言ったのは、とんでもないことだったのです。
 暴落とは
 売れるのを見越して資金を集めたのに、思うように売れなかったら暴落します。そのお金はというと、バクチと同じですから戻って来ません。
 マネーゲームで儲けようとした人がいかに多かったかということです。ウォール街が崩壊し、その連鎖反応です。
 百年に一度と言っていますが、人間は百年もすると同じあやまちを繰り返すのでしょう。不景気ではありません人災です。
                          2009.2.5

  
43 戦争論
 戦争は賛成・反対で決まるものではありません。
 戦争に至る過程は三つあります。
 一つ――外国から侵略された場合。
 これは、自衛のために戦うことになります。
 二つ――こちらが侵略に向かう場合。
 中国や満州から引き上げて来た人達の悲惨な話は、今も新聞などに投書されています。涙して読みます。
 でも、その人達が大陸へ行くときは「兵隊さん、ありがとう」と言って旅立ったのです。なぜ「ありがとう」なのか。
 零細農家は兄弟で田畑を分かつことが出来ません。都会で仕事を求めるにも限りがあります。口べらしに軍隊へ入る子もいます。
 軍隊に入れば食べる心配はありません。しかし、郷里の親兄弟を思えば、三度の食事が出来るのが心苦しくなります。働かずに食べるのがつらいです。
 兵士の仕事は戦争です。「戦場へ行きたい」と言うようになります。
 中国大陸で侵略が始まり、土地を得ることによって移民が可能になりました。大陸へ向かう人達は「兵隊さんありがとう」と言ったのです。その言葉を忘れています。
 三つ――戦争で利を得る人々。
 武器商人、軍事物資を調達する商人、情報を売り買いするスパイ、などなど。彼等は国民感情を扇動します。
 憲法で守られている、などと気楽にしてはいられません。      2009.2.24

  
44 仁義礼智信は何か?
 仁義礼智信忠孝悌といえば里見八犬伝を連想する人もいるでしょう。
 仁
 人が二人で「仁」、相手を思いやりなさいという意味になります。
 「人」の字は、二人が支え合う形だと一般に言われていますが、一方が一方を支えているのではありませんか?「人」は一人で立っている姿と理解してよいと思います。
 逆の形は「入」です。屋敷や宮殿を訪れたとき、門をくぐります。頭がつかえなくても「くぐる」と言います。礼儀として軽く頭を下げて通るのが「入」という形でしょう。
 義
 我を美しく、というのが義だとのこと。羊の大きいのが「美」で、遊牧民族が作った字ではないでしょうか。羊は衣食として大切ですから。
 礼
 「示」は神を示す字で、筆遣いによって「ネ」になります。神の前で膝をついた姿が「礼」であり、それが礼儀の始まりでしょう。
 智
 矢は狩や戦に欠かせない道具です。口は人口と同じで人数です。狩に行くにも人数が必要です。
 戦も敵味方の人数を「知」って作戦を立てます。それを「日」ごと気にしなさいという意味でしょう。
 狩も戦も部族の生存にかかわることですから。
 信
 誠を伝えるのも言葉、人をだますのも言葉。何を信じるかが大切です。人が美しくあるためには美しい言葉を使わなければいけません。方言でも、その土地なりの美しい言葉が使われていることでしょう。
 ヤクザ言葉が一般化するようでは世の中に「信」は無くなります。
 忠
 中は「なか」と読むほかに「あたる」という読み方もあり、「心をもってあたる」と解釈出来ます。
 忠義は一方的に押しつけられるものではなく、信頼関係が必要です。一方的だと配下は奴隷になり、国民や社員が奴隷になったら、国も会社も亡びます。
 孝
 土を耕す子が孝で、その行いを孝行と言います。農耕民族が作った字でしょう。
 「忠を求めんとすれば孝の家に於て求めよ」という言葉があり、親孝行は社会的信用につながるのです。
 悌
 弟の心得で、兄を敬いなさいという意味とのこと。兄弟の序列が崩れたとき、お家騒動が起こります。
 上の者が下の者に対する心得は「仁」です。

 などと私は考えました。皆様もお考えになっては?       2009.3.23

  
45 和とは何か?
 聖徳太子は「和」をトップにあげました。
日本の古名を「やまと」と言って「大いなる和」を当字にしました。
 和製・和服などのように「和」イコール日本です。
 和音となれば笙と無縁ではありません。足し算を和と言うように、和は集合体を意味するようです。
 和を分解すると「禾」と「口」です。禾は稲や麦などの穀類を差し、口は人口を差します。つまり、和は農業と関連しているのです。
 農家は個人経営ですが、作業によっては村人の助け合いが必要です。個人経営は働く意欲を促すためですが、農村という助け合う共同体で成り立っています。
 そう思って聖徳太子の言葉を考え直してみれば、農業国の大切さを言っているのではないか、と思いたくなります。
 さて笙の話になりますが、笙の和音は他に例のない和音です。ピアノは「ドミソ」と鍵盤の間を開けて押さえます。笙は「ドレミ」「ファソラ」と隣り合わせが使われます。
 一音違い半音違いの音合わせが当り前のように使われて、何の異和感も与えず、不思議なハーモニーを醸し出します。
 「隣合わせになったら仲良くしましょう」というだけのことです。
 人と人との和を笙の和音のように考えたら、外国のような宗教争いは無くなるのではないか、と思ったりします。
 日本人がこのような気持になるには長い歴史があってのことでしょうが、考えてみたくなりませんか?
                            2009.4.23
  
46 続・金融危機について
 前回に金融危機はバクチの結果と書きましたが、儲けた人はそのお金を何に使うでしょうか。
 その前に、バクチは善か悪かを論ずるならば儲かれば善です。損をすれば悪です。損をして喜ぶ人はいないでしょう。
 では儲かった人は善人かというと、沢山寄附をしてくれたら善人です。その裏で何があるか。それを知らなければ景気が悪くなったと嘆くだけになります。
 美術のオークションがあります。一般の人には関心が薄いかも知れません。でも、ニュースだけでも気にしてはいかが?
 何でこの絵が何億円もするのか。何でこの彫刻が何億円もするのか。芸術は値段が有って無いようなものだと言います。物好きな金持ちもいるだろうと思って終わりでしょう。
 ところが、それで終わらないのが美術の世界です。作者は有名になり金持ちになります。若い芸術家は、それをお手本と思います。「何で?」と思うものが多くなります。
 感性は慣らされやすいですから、「それも有りか」と思うようになります。つまり、「変だな」が「それも有りか」になるのです。 この心理が問題だと思って下さい。「変だな」が当たり前として受け取られるようになったら、善悪の判断が狂います。
 バクチに誘われても「悪」に思いが行かなくなるのです。損をしてようやく悪と気がつくのです。
 美術は趣味の世界だけではありません。世界の経済を動かしたのです。    2009.5.18

  
47 毒入りカレー事件に思う
 私が裁判員ならば「彼女は無罪」です。
 犯罪とは、動機があって犯行に及ぶものでしょう。たとえ無差別殺人であっても。
 「自白をしないから」と言うのは、彼女が犯人と決めつけたものの言い方です。
 限りなく疑わしい。ほかに該当者はいない。過去にこうだった。――これは決定的理由ではありません。
 1700点の状況証拠と言いますが、それは捜査資料ではないですか?その中に証拠物件があるならば、1点でも証拠と言えるでしょう。
 ついでに聞くならば、裁判員も1700点の状況証拠に目を通すことになるのでしょうか?
 過去のヒ素事件はいずれもお金がからんでいます。カレー事件にどのような利害関係があるのですか?動機が違うと思いませんか?
 動機なしの判決は過去にもあると言いますが、現行犯ではないですよ。
 ほかに該当者はいないと言いますが、完全犯罪だったら該当者は見つからないでしょう。印象の悪い人を犯人と思い込んでしまったら、なおさらです。
 被害者は「なぜこのような目に逢わなければならなかったのか」という釈然としない思いが残ると言います。動機がわからないからです。
 判決理由に「被告人が犯人であることは、合理的な疑いを差し挟む余地のないほどに証明されている。‥‥」と言いますが、裁判員の疑問も退けるという意味でしょうか?
 裁判員制度になって多数決で答を出すならば、少数派の裁判員にもしこりが残るでしょう。
 容疑者は限りなく疑わしいまま死刑になるのです。「限りなく疑わしい」は疑いが残るという意味ですよ。冤罪ではないと言い切れますか?
 この事件はマスコミが彼女を犯人に仕立ててしまったところがあります。松本サリン事件もそうだった。
 あなたが裁判員だったら、どのように考えますか?先入観を捨てることが出来ますか?
冤罪とは、先入観で捜査を進めた結果です。       2009.6.3

  
48 箸墓古墳に関して
 古墳の調査があるたび卑弥呼の墓ではないかと言う人達がいます。邪馬台国は九州かヤマトかという論争も続きます。どちらかに決めてしまうと夢が無くなるという人もいます。
 夢を追いかけるのは楽しいことですが、分かることは分からせて置かないと歴史の探究になりません。
 日本の古代史を知るには朝鮮半島の歴史を知る必要があります。高句麗の歴史書によれば、邪馬台国は九州の南部です。南部のどことは言っていません。
 ヤマト説の人達は、陸路何日・海路何日という数字にこだわっているようですが、数字は真面目に考えない方がよいです。
 中国の使者が旅先で羽を伸ばし、土地々々で接待を受けて日数を費したのに、本当は三日で行けますなどと報告できるはずがありません。
 箸墓古墳の主については、直木孝次郎著「奈良」―古代史への旅―岩波新書に、三輪山の大物主命の妻倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメ)と書かれています。
 著者は大物主命の由来を決めかねているようですが、播磨風土記にそれを知るヒントがあります。
 ヤマト三山の神々が争いを始めて、困った人々が出雲の神に仲裁を求めます。出雲の神が船で瀬戸内海を進むとき、ヤマトの人々の船が来て争いは治まったことを伝えます。出雲の神は播磨の岸に船を止め、一休みして帰ります。
 話はそこまでですが、想像するならば、争いのたびに出向くのは大変だから、代官所を置くことを考えたでしょう。
 大物主命はニギハヤヒノミコトと言って、出雲王朝から派遣された代官です。十月を神無月と言いますが、どれだけの地域の神々が出雲に集まったのか調べてみたらどうでしょうか。
 太平洋側には出雲に属さない国々があり、卑弥呼の国も出雲に属さないから独自に中国へ行ったと考えられます。卑弥呼は隣国と争っており、諸国の王のように言うのは使者の誇張でしょう。
 次の時代の崇神天皇・景行天皇・倭建の命については常陸風土記がくわしいです。
 天孫族系の天皇によるヤマト王朝と国譲りは、十五代応神天皇からだと思って下さい。   2009.7.3

  
49 ひとがた流しについて
 同様に「流し雛」というのもあります。三月三日の夕方、小さな雛人形を小舟に乗せ、捨てたい願いごとを書いて川に流します。
 「人形(ひとがた)流し」は六月三十日に行われます。紙を人の形に折ったり切ったりして、それに捨てたい願いごとを書いて川に流します。御祈祷と同じ意味ですから、神社によっては常時受けつけているところもあるでしょう。
 私が住む東京都台東区で、何年か前のこと隅田川でひとがた流しを始めた、というニュースがチラッと出ました。
 主催者が説明し、「子供達がひとがたに願いごとを書いて流しました。算数が得意になりますように、などと書かれています」と言っている。
 主催者は「流す」の意味が分かっていないようです。
 よほど教えてやろうかと思ったのですが、誰か気がつく人もいるだろうと思い、その後のことは耳にしていません。
 さて近日、テレビで、どこぞで「ひとがた流し」があったと話しており、「家内安全と書かれていました」と言う。
 家内安全を水に流してどうするつもり?
 これでは運性の悪い人が多くなるのは当り前です。
 七夕と混同してはいけません。
 算数が得意になりたければ「ボクは算数がキライです」と書くのです。キライを捨てるのだから、キライではなくなります。大事なことは「悪いところを川に流したから、もう大丈夫」と信じることで、本当だろうかと疑ったら効果がありません。
 「家内安全」を願うなら、何を捨てたら家内安全でいられるか考えることです。逆は難しいですよ。
                         2009.7.31
  
50 薪能の意味はご存知?
 あちこちの劇場で、あるいは神社仏閣で薪能が演じられるようになって年月が過ぎました。
 薪能の意味が分かっているのだろうかと思ったり、伝統芸能だから言い伝えているだろうと思ったり……。
 さて最近、「蝋燭能」というポスターを見て「何これ!」とビックリ。
 こうなると薪能もあやしいものだと思います。
 薪能について説明します。
 春日大社で、その年に使われる新しい薪の使い始めの儀式に奉納される能を「薪能」と言います。薪能を神事と言うのはそのためです。
 大和四座と呼ばれた観世・金剛・金春・宝生の四座がこれに当たりました。
 その後、中断していた時代があり、興福寺で復興しました。そのため興福寺がスタートラインのような解説もありますが、それは違います。仏事と言わないのを変だと思いませんか?
 そして、庭で燃えている篝火は照明でしかないのです。
 焚火もかまどの火も知らない世代にとっては、炎に神秘的なものを感じることでしょう。 とは言え、薪能の歴史を間違えて理解されては困ると思います。
 薪能と言わず「篝火能」とでも言えばどうですか?それならば蝋燭能も成り立つでしょう。   2009.9.7

 
51 秩序の秩に思う
 禾は穀物で、穀物を失うのが秩序というのは納得出来ない。もう一つ考えて「矢」を「失」うならどうか。
 農耕に専念して、狩や戦をしなくてもよい暮らしになれば、矢は使わなくて済みます。そして国々が秩序を保つならば平和であろう、という理想を示しているのではないか?
 都市は商工業とともに発展しますが、都市の発展だけでは秩序は保てません。食物を提供する周辺地域が無ければ食文化にならないでしょう。
 秩序は相互のバランスですから、相互に良かれでないといけないのです。
 「今の世の中は秩序を失っている」と言う人もいました。それに上乗せするように小泉政権の「規制緩和」がありました。
 結果を見て国民は政権交代を選びました。物事は原因結果です。原因に気がつく人は常に少数です。
 工業の発展は経済を豊かにしましたが、格差が生じました。環境汚染も生じました。
 バランスを保つには何事も「程度」が必要です。
 政府に対する期待だけでなく、国民一人ひとりが「秩序」を気にするようであって欲しい。そして、自然崇拝の民族に戻って欲しいと思います。              2009.10.5

 
52 昭和30年代です
 TVドラマがありました。
 私が20代の頃の話で、上京して暮らした下町は、あのドラマのようだった。
 アルバイトをしながら、美術団体の経営する画塾に入りました。年令を問わないので、年令も職業も多様でした。
 製粉会社の重役がベンツでやって来ました。ベンツは銀座でもどこでも見ることがなかった時代です。その人は、毎日午前中にモデルを描いて午後出勤です。これが重役出勤だと思っておりました。
 オマワリさんも毎日午前中に絵を描きに来ました。広報担当だから美術の知識が必要だと言って、署長の許可を得ているとのこと。
 大学病院の看護婦さんが、ほぼコンスタントに来ました。夜勤明けは休みだからと言う。夜勤は仮眠室で寝ることが出来るから、つらくないのだと。
 ゆとりがあり、夢があった。
 このような時代に「使い捨ての消費経済」が始まったのです。
 使い捨ての例が示されました。
 それまでは、小さな荷造りは紙ひもを使っていましたが、丁寧にほどいてまた使います。
 ビニールひもが出来ました。ビニールひもをほどくのは容易ではありませんが、それまでの習慣でなんとかほどいていました。
 「ほどくのは面倒なこと、ハサミで切りなさい。時間がもったいないでしょう」と言うのが使い捨ての例でした。
 いつのまにか時間に追われるようになり、人間まで使い捨てです。
 「省エネ」と言われています。しかし、三世代に及んで使い捨てが習慣になっており、広く行き渡るのは容易ではないでしょう。
 今の時代は捨てる物が多過ぎます。      2009.10.22

  
53 気の短い日本人?
 アメリカを真似ていたのに、気の長さを真似なかったのはなぜかと思う。
 アメリカ人はゆったり歩いています。「背が高いから、そう見えるのだろう」と言う人もいました。私は、ロサンゼルスへ行ったとき、アメリカ人の後から歩いてみた。やはり、ゆったりしています。
 ハワイはアメリカと日本の中間くらいの早さです。日本人の影響が大きいのでしょうか。
 成田へ降りたら、早いこと早いこと。日本人は、これ程早かったのかとあきれます。
 以前に「狭い日本、そんなに急いでどこへ行く」という言葉が流行しました。でも、急ぐのを止めることはなかった。景気を追って競争です。他社と競うだけでなく、社内でも競い合っていた。
 何で?どうして?疲れませんか?
 テレビのニュースも、同じ現場へ何十人もの記者が押しかける。同じようなニュースを流す。視点を変えて見ることはないのかと思う。
 さて、政権が交代して、街の声の中に「景気を良くして欲しい」と言う言葉がかなり多い。
 よく考えて下さい。景気を求めた結果が今の有様でしょう。「安定経済であって欲しい」と言う人がいないのはなぜ?
 昔は「お金は天下の回りもの」と言いましたが、今はどこかへ回って行ってしまうような気がします。
 落着いて考えましょう。      2009.11.24

  
54 郵政民営化について
 理解しずらい人もいるようですので説明します。
 もの事には「考え方」があります。時事問題をコラムに書くのも、「考え方」を雅楽にも当てはめて欲しいからです。
 さて、赤字国鉄を民営化して、欲しいと思う外国企業があったでしょうか。JALをアメリカの航空会社が欲しがるのは、JALの海外路線です。
 郵政を株式会社にしたら、何を欲しいと思うでしょうか?
 鳩山総理の所信表明があった日の朝日新聞朝刊に、社会経済学者の論評がありました。
 『米国が日本に要求するのは、基地だけではない、米国通商代表部が外務省と毎年取り交す「年次改革要望書」では、経済的な規制や慣行の撤廃要求が次々と突きつけられ………』
 というように「規制緩和」も「郵政民営化」もアメリカの要望だったのです。
 規制緩和は、自由に商売をするようにという意味ですが、まじめな人が「さて何をしようか」と考えている間に、悪賢い人が先へ行ってしまいました。アウトローの世の中になって困ったから政権交代を望んだわけでしょう。
 郵政民営化で、過疎地のこと、かんぽの宿のこと、郵便物の悪用等の問題が出ました。でも、それは枝葉のことで根幹はアメリカの要望です。
 郵政の西川社長が郵政株を売り出す準備をしていたところへ、亀井大臣が「売ってはならん」とストップをかけたのです。
 アメリカの投資家が株主になれば、何百兆円ものお金がアメリカへ流れて行くことになります。日本人が株を買えば内需拡大になるだろう、などと言っていられるものですか。
 民営化の利点が耳に残っている人には、それが先入観になってアメリカが見えていないのでしょう。
 郵政に限らず、アメリカひいきの人達が新政権の抵抗勢力になっています。マスコミを含めて。
                       2009.12.15
  
55 考え方について
 前項で「もの事の考え方」と言いました。
 郵政民営化のままでいたらこうなるという説明をしました。どうして、そういう「考え方」になるのかと言いいますと‥‥。
 ホリエモンが何をしたか思い出して下さい。あの事件で何を「学び」ましたか?
 テレビ局がアメリカの投資家に買い取られそうになったのですよ。
 あれを、テレビ業界は対岸の火事と見ていたのでしょうか?のど元過ぎれば熱さを忘れるのでしょうか?野党と一緒になって郵政の新社長は天下りだと騒ぎ立てます。
 大臣の直属になるのは天下りでしょうか。
 脱官僚とは、国会答弁を官僚にたよならい、という意味でしょう。
 新聞に、小中校生の暴力が増加したという記事がありました。
 その理由として、
 「子どもの思考がパターン化され、深く考えられなくなっている。気持を表現する言葉の幅が狭くなっている。表現ができない出来事にぶつかったとき、感情や行道が激化してしまうのではないか」という意見もありました。
 これは国会も同じです。
 鳩山総理の所信表明の翌日から、質疑応答になりました。
 野党の代表者が次々と質問をし、その都度総理の答弁があるのですが、どの質問者も同じ質問をして、総理も同じ答えをくり返します。
 次に、参議院でも衆議院と同じ質問があり、総理も同じ答えをくり返します。
 これ程のパターン化はないでしょう。
 参議院のときは会場が小さくなり、後の傍聴席に民主党の若手議員がいました。
 自民党の谷垣氏の質問に対して、民主党の若手が騒々しく下手なヤジを言うものだから、谷垣氏が振り返って「出て行け」と呶鳴りました。すかさず亀井大臣が「谷垣、お前こそ出て行け!」「亀井、お前が何を言う!」
 たしかにヤジは聞き苦しかった。しかし、冷静であれば議長に「退場を命じて欲しい」と言えたでしょう。
 国会はもとより、大人の世界がそのまま子供に反映しているのではないか?
 世間一般に、もの事を「関連」して考えなくなっています。        2010.01.09

 
56 卑弥呼の鏡
 卑弥呼の使者が魏へ行ったのは239年で、魏は曹操の子曹丕がわずか6年で退位し、次が曹叡、その次の曹芳の即位は239年です。
 曹芳は卑弥呼の使者に返礼として沢山の品々を持たせ、その中に銅鏡100枚もあったのです。
 それらの目録の最後に「これらの品々を汝の国中の人に示し、我が国の汝への心づくしを知らしめるがよい。良き品々を沢山持たせたのはそのためである」と書かれています。
 だから、鏡は国々に贈られ、卑弥呼の羽振りを示したものと考えられるでしょう。鏡と卑弥呼の関係はそういうことです。
 卑弥呼が魏の皇帝から大切に思われたのはなぜか。
 卑弥呼は鮮卑族(モンゴル系の一種族)で、高句麗は鮮卑族、百済王は高句麗王の血筋、魏の曹操も鮮卑族。
 同族で親交があったのは卑弥呼の方で、魏は高句麗と争っており半島の南に位置する邪馬台国に戦略上の意味があったのではないでしょうか。
 卑弥呼の時代の倭国というのは出雲王朝のことで、邪馬台国は倭に属していません。この解釈は、高句麗の古記及び常陸風土記・播磨風土記によります。
 当時のヤマト(奈良県)は出雲の配下にあり、神話の「国譲り」と「神武東征」は十五代応神天皇がモデルという説が妥当でしょう。
 では、邪馬台国はどこか。
 高句麗の古記と魏書を照合してみますと、邪馬台国は宮崎県です。その南の大隈半島には男王卑弥弓呼の支配する狗奴国があり、卑弥呼と敵対しています。
 筑紫の伊都国のみ倭国(出雲)に属して、以南は卑弥呼の支配下であったとのこと。
 中国の記録には数字を誇示する例がありますから、数字は気にしない方がよいでしょう。方角は太陽を見て行動しますから、ほぼ間違いないと思います。
 さてそれで、先日発掘された鏡の破片ですが、なぜあのような割れかたをしたのか、青銅の鏡にどのような力が加わったのか不思議に思います。                    2010.02.16

  57 逆説抑止力
 中国の人が口にした「瓶のふた」という言葉を、日本のどれだけの人が理解したでしょうか。
 私は、うまいことを言ったものだと思いました。
 「瓶のふた」は日本に駐留する米軍のことです。違いますか?
 日本は、中国をはじめアジア諸国を支配したことがあります。それを今でも恐れている人達がいて、米軍が「ふた」になって欲しいと願っているのです。
 日本は戦争に負けて被害者意識が強いけれど、戦争を始めた加害者だということを忘れてはいけません。償が済んだと思ってもいけません。
 アメリカは「真珠湾を忘れない」と言っています。
 アメリカはアジアを侵略する日本にストップさせようと策略しました。
 戦争になれば簡単におさえられると思ったのでしょう。ところが日本軍は降伏せず米兵も沢山死傷しました。やむなく原爆を落とすことになったのです。
 アメリカは方針を変えました。冷戦を口実に安全保障条約を作り、日本を手なずけて利用することを考えたのです。
 駐留軍はそのまま常駐し、日本人の多くはアメリカに守られていると思うようになりました。アメリカ大好き人間も多くなりました。
 「瓶のふた」が成功したのです。
 時代が変わり、米軍の退去を願う声も出て来ました。基地の兵も少なくなっているといいます。瓶のふたは小さくてもよいのです。
 さて今このときに、過去の密約文書をアメリカが表に出したのはなぜでしょう。
 基地の米兵が国外へ移転するときに日本が移転費用を負担したということのようで、日本の関係者も当時のことを証言しました。
 アメリカは国外と言ってくれれば移転費用を出してもらいたい、過去にも例があるのだから、と言いたいのでは?
 ところが鳩山総理は「抑止力」という言葉を使って米軍を引き止めようとしているのです。アメリカとしては、それもまた結構、基地の維持費は日本持ちだから。
 それにしても基地の受入れ拒否が多いのはなぜ?
 幕末以来のアメリカとの付合かたを省みるときではないでしょうか。どこまで「イエス」か、どこまで「ノー」か、という意志表示も友好のうちだと思うのです。
 「コラム36 防衛利権について」も読み返して下さい。   2010.5.10

  
58 政治とカネについて
 「企業献金はなぜ禁止できないのか」という言葉を新聞で見ました。
 それは国民の認識に問題があるからです。
 「国会議員の資産を公開しろ。給料が高すぎる。ボーナスが多すぎる」などと言っているようでは献金は無くなりません。
 政治家はサラリーマンではないのです。
 納得できない人は国会議員のオフィスを訪ねてみたらよいでしょう。
 議員会館のオフィスだけで用が足りない議員は、別にオフィスを借ります。
 公設秘書だけでは足りない議員は、私設秘書を雇います。それらの費用は議員の個人負担です。
 選挙にはお金がかかります。ポスターが貼れない候補者もいるのです。
 親が本人が大株主ならばよいでしょう。ほかに収入源のない議員はどうしますか?派閥のボスになろうと思う人は、彼等のために資金を得ようとするでしょう。
 政党交付金だけでは足りないから献金が欲しいのです。
 それが「政治とカネ」です。
 公共事業を得たい業者と、献金を受けたい議員がつながります。「談合」です。
 バブルがはじけた1990年代に政府は何をしたか。
 仕事を失った建設業者のために「公的資金の導入」と言って必要のない公共事業に税金を投入しました。献金が欲しいからです。
 それが一時しのぎでなく20年も続いて財政は赤字になりました。
 赤字を埋めるためにウォール街に投資をしました。ウォール街はカジノですから赤字は更に増えたのです。
 そのほか、税金の流れの中間に○○法人が出来て中間搾取をします。その流れを助けて献金を受け取る議員を「族議員」と言います。
 政権交代で○○法人を無くすと言ったのですが、このシステムを無くしたら政治家へのお金の流れが止まるのです。
 そのような行ったり来たりのお金の流れをやめて、議員の必要経費をオープンにして税金で賄うようにすればよい。と私が言えば反対する人もいます。
 どうすればよいですか?
 中間搾取の一例を上げます。
 東大は「国立東京大学」ではなく「独立行政法人東京大学」になったそうです。教授は「教官」と言わず「教員」だと。
 小泉政権のころにそうなったらしい。           2010.5.21

  
59 火を知らない子供
 ライターの火災が多いのに驚きます。
 子供は父親がタバコを吸うのを見て、ライターやタバコに興味を持ちます。好奇心は知識の始まりですから、これを否定してはいけません。
 危険なものを子供から遠避けるのは、子供の年齢と子供が知る必要のないものによります。
 新聞には、ライターの形状を図で示し、危険度の高いものを改善しましょうというようなことが書かれており、大仕事になりそうだという。
 ライターによっては、タバコに火を着ける時間と子供が火を眺めている時間を考慮しなければいけません。
 ライターの本体が熱くなってプラスチックが燃え出したら、子供はびっくりして放り出すでしょう。フタが閉じても消えることはないし、中のガス液に火が移ったらおしまいです。
 危険と安全は表裏一体であり、絶対安全はありません。
 子供にライターの使い方を教え、何らかの方法で火の熱さを教えるのがよいでしょう。
 タバコに興味を示したらタバコをくわえさせればよいのです。辛いと感じたら、子供が口にするものではないと知るでしょう。体に悪いほど影響はしません。
 寝タバコで火事になるのは、火の危険性を知らずに大人になったからです。
 次に危険なものは刃物です。安全な刃物などはなく安全に扱うことを覚えなければいけないのです。
 大人になって細工物を作ろうとしたら、エンピツを削ったこともない刃物を研いだこともない世代にハンデーが伴います。
 自動車の教習所では安全運転を教えます。免許を取得すると安全運転が出来るようになったと錯覚しませんか?
 安全運転をしているのはパトカーだけ?
 安全保障と言われて危険に怯えている町もあります。
 安全とは何?
 安全に馴れ過ぎていませんか?              2010.6.21

  
60 「欲望と消費」という本の感想
 ヨーロッパから始まるアメリカのファッションの流れを、アメリカ人の夫婦が年月をかけて調べたものです。
 その中から書き抜いた言葉のいくつかを解説してみます。
 タイトルの欲望と消費は、大衆の欲望(あこがれ)が大量の消費につながるという意味です。
 「トレンドはいかに形づくられるか」という副題がついています。「CHANNELS OF DESIRE」が元題でしょう。

 「現実は相対の幸福」
 「神に絶対の幸福を見る」
 商人は、幸福の求め方を哲学的に判断しているのです。
 「相対の幸福は比較の問題」
 貧富も相対であり、人間には同じ物を求める心理と優越感を持ちたい心理があります。
 「距離感が魅惑をつくりだす要素」というのが比較の内容です。
 優越感は他者と距離をおきたい心理であり、他者には「あこがれ」という欲望が生じます。富者と貧者双方の心理を突く宣伝をして流行をつくり出すのです。
 同じ品物でも。先に買うか遅れて買うかという時間的距離を競うこともあります。
 貴族の暮らしは羨望ではあっても手の届かない高嶺の花でした。物によっては手の届く高さに引き下げることも考えます。質を下げたとしても。
 大量消費とは、手の届きそうなニューファッションを作り出すことであり、手に入ればあこがれではなくなりますから、次の流行を考え出すことになります。
 消費経済とは、ほぼそのようなもので、捨てる物が多くなります。
 このようなことを繰返していると、人間が軽薄になります。
 日本は伝統文化のある国ですから、アメリカのような歴史の浅い国とは違うと思いませんか?
 「神の恵みは自然の中にある」
 これには驚きました。日本人の自然観と同じではないですか。突詰めればそうなるのでしょう。
 ところが今は、日本に来ている外国人が、日本人に自然の大切さを教えている時代です。 
                       2010.7.30
61 黒船騒動はいずこへ
 幕末のドラマには必ず黒船が登場します。以来現在までアメリカをどれだけ理解出来たでしょうか?
 私が疑問に思っていることを書いてみます。
 「なぜ都を東京に移したか?」
 これが気になっているのですが、それに答える歴史書はなく、私が勝手に解釈するだけです。
 薩長連合は西国ですから、京都の方が近かろうと思うのに、江戸が日本の中心としてふさわしいと思ったのでしょうか。
 政治の場は江戸でも、皇居まで移す必要があったのでしょうか。
 西郷が江戸を焼き払う考えでいたのを勝海舟らが思い留まらせたとか、イギリスが西郷を説得したとか言われています。
 ということは、江戸を焼こうと思う西郷には、江戸を政治の中心地にする気はなかったということではないですか?
 イギリスにしろフランスにしろ、西から来る外国人にとっては、東京は遠くなります。
 などと考えると、イギリス・フランスの背後に居るのはアメリカではないか、という気持になります。
 アメリカにとって東京湾を港にした方が近いのです。太平洋を越えて来たら、少しでも近い方がよいに決まっています。
 イギリスに「江戸を焼くな」と言ったのはアメリカだと思います。
 そして、皇居を東京に移させたのもアメリカだと思う。
 その理由は、ハリスが幕府に「通商条約」の調印を迫ったとき、「天皇の勅許を得なくては」と言って京都へ行く、朝廷にはほかにも難題があって返答が得られない。というやっかいな例があったからでしょう。
 では、なぜアメリカが西欧諸国を動かす力があったのか。それはアメリカの財力です。
 武器商人の例をあげるならば、インディアンと戦う騎兵隊に新式銃を売り、使わなくなった旧式銃をインディアンに売る。
 あらかじめ両者が争うように裏工作をしておく。
 南北戦争も同様で、開発の進んだ新式銃を北軍に売り、下取りした銃を南軍に売った。
 それを知ったリンカーン大統領を暗殺したのだという話もあります。
 ちなみに、リンカーンの死は南北戦争が終ってからわずか5日後のこと。龍馬暗殺の2年前です。
 武器商人とつながりのある政府は、武器を買った国が、武器を売った国に戦争をしかけても困らないようにしておかなければいけない。
 明治政府が天皇中心の統一国を造り、軍国主義の強国を目差したとき、軍に内部対立が起きるように考えたのです。陸軍はフランス式、海軍はイギリス式を取り入れるように仕向けたのだと思う。
 このことは軍楽隊の例で別記しました。音楽用語の違いは大したことではありません。フランスはメートル法、イギリスはヤードポンド法、後にフランスはドイツに変わりましたが、ドイツもメートル法です。
 双方の兵が計量をするとき、換算をしなければわかりません。このじれったさから反目し会うようになるでしょう。しまいには道で逢っても敬礼を交さなくなったとのことです。
 こうような反目は上層部も同様で、作戦も一方的になり、真珠湾攻撃も海軍だけになりました。
 戦後は、政治経済はもとより、学問芸術などあらゆる面でアメリカをお手本にして来ました。
 次回はGHQの置きみやげを書きます。
                   2010.12.6
  
62 G H Q の置きみやげ
 「電通」と言えばピンとくる人と、そうでない人に分かれます。
 「広告代理店は知っている。それがどうしたの」と言う人のために書きます。
 マッカーサーが卒いるGHQの中にCIA(情報局)の将校がいました。
 日本での情報集めと情報操作(一種のスパイ活動)が仕事です。その情報員が残して行ったのが「電通」です。
 アメリカの情報操作が電通を通して行われるようになりました。
 テレビの視聴率は局独自の調査もあるけれど、電通の調査を優先するのだそうです。電通の調査がどのように行われているかは、局側が知ることはないとのこと。
 広告代理店ですから、スポンサーとコマーシャルの仲介をします。局側はスポンサーを得るために視聴率を気にします。
 電通はスポンサーの優先順位を決めたり、番組作りにも口を出すとのこと。
 問題は番組の内容です。かつてテレビのことを「一億総白痴化」と嘆いた人もいました。
 テレビだけではありません。テレビと新聞はつながりがあります。新聞にも広告が載ります。雑誌や出版物の紹介も載ります。
 情報のいかんによっては、教育や行政にも影響します。
 アメリカが日本に望んだことは「アメリカにとって都合のよい日本になって欲しい」ということです。日本風でなくアメリカ風になって欲しい。
 そのためにGHQのプランには、日本の伝統芸能の廃止案が書かれていたといいます。
 マッカーサーは日本びいきで、副官はさらに日本びいきで、日本の伝統芸能がかなり救われたようです。
 そうなると、今度はアメリカの良さを強張するようになりました。その手先のような日本人もいました。
 その結果、アメリカ大好き人間が多くなり「アメリカがクシャミをすれば日本が風邪をひく」と皮肉を言う人もいたわけです。
 近頃の新聞で「幸せな奴隷」という言葉を知りました。「支配されている側が、支配されていると感じない状態」だそうです。
 情報操作とは、このようなものだと思って下さい。
                   2011.1.6
  
63 自由と責任
 戦後と言われた時代に、私達日本人はアメリカから「自由」という言葉を教わりました。
 ところが、アメリカは自由に伴う言葉を教えなかった。
 その結果、秩序が乱れて、アメリカが支配し安くなりました。
 リーマンショック以来、アメリカは日本に指示を出すどころではなくなったため、政府も社会も混乱しています。
 自由の反対は「不自由」ですが、不自由は個人差があります。
 聖書では「奴隷でないのが自由」だと言います。不自由どころではありません。
 奴隷から逃れて国に戻れば、秩序を守るための責任が生じます。
 自由に伴う言葉は「責任」です。
 アメリカは自由の国ですが、結果によっては重い責任を負うことになるそうです。
 自由と責任はバランスの問題だと思って下さい。自己責任では済まない場合もあるのです。 
                    2011.2.4
  
64 般若心経について
      (西塔の注釈入り)

 般若心経は、釈迦が観音菩薩の心がまえを舎利弗尊者に説明しているのです。
 時代や宗派によって訳し方の違いがあるものと思って下さい。

 観音菩薩は般若波羅蜜多(理想に至る智恵)を行うとき、五蘊(色受想行識)つまり体と精神は「空」であると見なして、一切の苦厄を理解した、と語り始めます。
 釈迦は舎利弗に「空」の内容を説明します。舎利子と二回呼びかけるのは、二回に区切る必要があるからだと思います。つまり、「空」の解釈が二通りあるからではないかと思う。
 ①の舎利子
  色不異空空不異色
 ここは空間と解釈してよいと思う。
 形あるものを「色」といい、形と「空間」は一体である。この空間は、ものを入れるための空間です。
 コップに例えれば、コップは色、中は空。コップの形は中の空間に異ならず、中の空間はコップの形に異ならず。
  色即是空空即是色
 コップの形は空間を形成し、空間の量はコップの形態による。こわれたら「無」です。
  受想行識
 感受し、想像し、実行し、認識する。これらがなくなったら「無」です。
 ②の舎利子
  諸法空相
 もろもろの決まりごとの何も無い姿は、
  不生不滅 不垢不浄 不増不減
 不を取ると、生滅、垢浄、増減となり、世の中は相対するもので成り立っているという、釈迦の相対性理論です。
 それらが無い状態を「空」という。
 この故に、相対性が無い状態ならば、色(体)は無く、受相行識の精神作用も無い。
  眼耳鼻舌身意(六根)
  色声香味觸法(外界)
  眼界……略……意識界(認識した世界)
 これらの感性がないのを「無」と言う。生きているから有るのです。
  明(昼) 無明(夜)
 昼があるから夜があるという前提で、夜が無ければ、夜が畫きることはない。
  乃至無老死
 同様に、生があるから老死があるという前提で、老死が無ければ老死の畫きることはない。
  苦集滅道
 何が「苦」か、その「集」まって来る元は何か。苦を「滅」した状態はいかに、その解決の「道」はいかに。
  無智亦無得
 智恵の有無、損得の有無。
 そして、無所得の故を以て、
  菩堤薩埵(菩薩のていねい語。やすらぎを持たらすと訳してはどうか)は、般若波羅蜜多に依るが故に、心に、
  罣礙(けいげ=わだかまり)
 わだかまり無く、わだかまりが無い故に、
  無有恐怖
 恐れがあることも無く、
  顚倒夢想
 ものを逆さまに見ることや、夢まぼろしを遠く離れて、
  究意涅槃
涅槃は燃えつきることだそうで、ローソクが燃え尽きるようにその使命を終えるのです。 三世(前世現世来世)の諸仏も般若波羅蜜多に依るが故に、阿(言+辱) 多羅(最上級)の三貌(正しい)三菩堤(安心感)を得た。
 以下、般若のすばらしさをあげて、その呪文を説くのです。
  揭諦揭諦
 「行くことに於て」と訳しているのを、近い意味の「向かって」にしてみました。
  波羅揭諦
 波羅を「彼岸」と訳すのは極楽浄土に思いをよせているのです。願いを彼岸に限定しない方がよいのではないか?
 「理想」と訳せば、それぞれの理想に向かう思いになるでしょう。
  波羅僧揭諦
 「僧」は人を導くことの出来る身分のお坊さんのことだそうで、「師」と言い代えてもよいでしょう。
  薩婆訶
 菩提を「さとり」と訳していますが、菩提寺を「さとりの寺」と言ったら、庶民には遠い気がする。「やすらぎの寺」と言った方が身近になるのではないか。
  向かって向かって
  理想に向かって
  理想に導き向かって
  安らぐのです
 導く人と導かれる人には、共通の理想と共通の安心感があるのです。読むときは漢字でなくては気分が出ないと思う。
 意味がわかってみると、お経は仏様にお願いする文章ではありません。
 お経をゆっくり唱えると静かな気持になり、気持を高揚させたいときは、アップテンポで力強く唱えます。自己催眠による祈りの効果があるのだと思います。
              2011.3.3

  
65 相対と絶対について
 前項の般若心境のように「空」だの「無」だのと言われても理解に苦しむでしょう。
 釈迦は相対性理論を教えました。キリスト教の天地創造も相対性です。
 相対性は「存在」を意味します。アインシュタインの理論も同じです。
 プラス(陽)・マイナス(陰)の間に起きる現象やひずみなどから発見・発明をします。これが智恵です。
 雷から電気を発見し、人の手で発電気を発明しました。
 科学はこのように明確な結果が出ますが、やっかいなのは人と人との気持や考え方のズレです。
 「あちらを立てればこちらが立たず。こちらを立てればあちらが立たず」これが世の中です。
 釈迦は「無」を教えました。
 「有る」と「無い」は対語ですが、それぞれが絶対で、有るものは有る、無いものは無いのです。
 無いものから有るものは作れません。有るものから有るものを作るのです。
 釈迦は人の「心」の相対性も教えています。心が有るか無いかと言っているのです。
 「心有る人」「心無い人」という言葉は死語でしょうか?
 心無い人とのつきあいは安心出来ないでしょう。人と人とは安心感で結ばれているのです。
 短い出あいであれ、長いつきあいであれ、心の暖まる人に逢えますように。
               2011.4.10
   66 絶対安全とは
 危機感と安心感は表裏一体です。
 「買い留・買い控」は安心したい気持から起きる自然の行為です。しかし、冷静な判断もあって欲しいと思う人も多いでしょう。
 そのためには、情報の伝達が的確であって欲しいのです。テレビが機能している地域の現象であるだけに、行政用語のあいまいさが誤解を招いたのではとの言葉もありました。政府の口と腹は違うのでは?
 「被災地」のことは日々報道され、あまりにも広範囲で、避災者も支援者も大変だろうと思います。国内から外国から、沢山の善意が寄せられるのは有難いことです。
 今後のことを思えば、被災地の問題だけではなく、全国民が考えなければならない課題が多いでしょう。
 発想の豊かな人、価値観の転換の出来る人が多くなって欲しい。
 問題は「原子力発電」です。
 原発の危機管理は、新聞の対談で問われていたばかりでした。
 管理というのは現状維持であって、非常時には危機の「対応」でなければいけません。
 今回の対応は、事故から一週間も後のことでした。危機が分刻みで進んでいるというのに。
 危機の対応は想定外、つまり、プランの中に入っていなかったのです。
 管理部門が幾つもの省庁や委員会にあるため、話合いに手間どったのでしょう。縦割行政に加えて、学者の縄張意識もあるようで。
 事故から三週間過ぎても「放射能はなんらかの経路で……」と言っている。「なんらかの」とは無知によるものなのか、点検に近寄れないのか、公表出来ないほどひどいのか。

 人は絶対を求めたがります。
 絶対大丈夫とか、絶対安全とか、絶対に忘れないようになどと言いますが、それは願いであって必ずとは限りません。
 音楽には絶対音感という言葉がありますが、自然界に絶対音は無いのです。目と同様に耳にも左右のズレがあり、どちらの耳で聞くのが絶対音でしょうか?
 音楽用語の絶対は危険を伴いませんが、聞きなれ使いなれるところに問題があるのです。
 般若心経の「無」は、人が人でなくなった状態(死)を意味します。人知を越えた「絶対」の世界へ帰って行くのです。キリスト教の神が人に与えた「絶対」も「死」です。
 相対と絶対を理解しなければならないのは、宗教も芸術も科学も同じです。人は相対の世界で生きており、これを忘れてしまうから困ります。
 別項でライターのことを書きましたが、安全なライターなどありません。火が危険なのだから。
 「安全」は「相対的」なものであり、「どの程度」という程度問題です。「想定外」と言わず、「おろかでした」と言って欲しい。
 風評対策ならば、石原都知事が浄水場で水を飲み、「うまい。東京の水は」
 それでよいのです。          2011.5.1

  67 発想を豊かに
 アイデアのほかにコンセプションもあり、広い意味で解釈して下さい。
 「なぜ、どうして」という好奇心・探求心を持ち続けることが大切だと思います。
 以下は私の疑問です。
 赤十字やボランティアは、どのような活動をする組織でしょうか?
 私の認識だと、行政とは関係なく独自の活動をする組織だと思っていました。
 義援金は赤十字に集められ、支援金はボランティアに集められるとのこと。
 それらが独自に救済に使われるものと思っていたら、地方自治体に届けられるらしい。
 その方が漏れなくスムースに届くであろうと言う。
 ところが、テレビで被災地の看護師さんが「薬を届けて欲しい」と訴えていました。赤十字が付いているのではないかと思った。
 薬には法的に規制されたルートがあります。そのルートが機能を失ったのです。代行出来る方法は考えられていないのでしょうか。
 西洋のボランティアは、戦時にはパルチザンであり、平和時にはそのままボランティア活動をするのだと聞きました。
 パルチザン(レジスタンス)は、軍隊が戦力を失い、進駐軍が国に入って来たときに抵抗運動をする地下組織で、本部の所在はわからず、どこからともなく指示が届くのだとのこと。
 映画や小説に登場する例もあり、パルチザンが主役の映画もありました。鉄道さえパルチザンの指示に従っていました。それがヨーロッパのボランティアです。
 NPOという言葉は耳新らしいのですが、平成10年にNPO法が出来て以来の非営利法人とのこと。400団体もあるという。私などは、ボランティアと行政の間に入った天下り法人ではないかと疑います。
 それで良いと思うなら良いだろうし、変だと思うなら変でしょう。
 日本人は、明治以来ヨーロッパを真似て来たはずが自主性に疎く、誰かの指示がないと動けないらしい。
 大きな発想は無理なのかと思います。大きなことがダメなら小さなことで行きましょう。
 個々の生活に於ては、自粛によって生活様式の改善があるようで結構だと思います。
 このように「こうしたら、ああしたら」という小さな発想でよいのです。消費のありかたで経済の流れが変わるのですから。                2011.6.3

68 価値観の転換

 価値観とは、何を大切に思うかということです。
 昔を振り返るならば、時代々々で生活様式も物の価値も変わりました。
 外来の文化が入るたびに、新しい価値観が生まれました。
 その過程でミックス文化が育ったのです。ミックスした中で、変わることなく流れ続けて来たのが「自然崇拝」という価値観です。
 山には山の知識、海には海の知識が必要で、エコロジーは都会の知識です。まして、外国の知識をそのままというわけにはいきません。
 自然崇拝には、自然の恵みに対する感謝の気持とともに、自然への恐れの気持がありました。「たたり」です。
 たたりは「手垂り」で死者が霊界から手を垂れて災いをするという信仰が元だとのこと。天災は天からのたたりだと解釈していました。
 この、たたりに近い言葉に「ばちあたり」があります。
 昔は地域社会がまとまっていたから、ばちあたりの結果を見ることが出来た。最近は住民の入れ代りが多い上に、プライバシーといって他人の私生活を気にしないでいるから、原因と結果がつながらないでしょう。
 釈迦は原因と結果を教えています。「因・縁・果」(縁は原因と結果の橋渡し)
 どのような種を蒔いたか、どのように育てたか、稔りはどうかというこです。
 日本人は、より良い種を蒔き、丹精こめて育てます。損得抜きの丹精を惜しまない民族でした。
 丹精が評価されないようでは困ります。
 それと、法治国家の悪い面も気にしなければいけません。法律や規則を多くすると、倫理的な思考が希薄になりますから。
 日本人が大切にして来た価値観の一つに「もったいない」があります。
 使い捨ての消費経済が50年間続きました。消エネという言葉は見向きもされなかった。ところが「自粛」は、ここまでしなくてもと思うほど広がりました。
 この自粛ムードが「もったいない」という価値観に転換してくれたらよいのです。
 もったいないは、単なる節約ではありません。物を大切にしながら、どこかで美的価値を高めていたのです。

 原子力発電と政治について知りたい人にお勧めします。
 「ベクテルの秘密ファイル」
 ――CIA・原子力・ホワイトハウス――
    著者 レイトン・マッカートニー
    訳者 広瀬隆
    発行者 ダイヤモンド社
 ベクテル社は、アメリカ最大手の箱物建設会社で、国策に関与しているのです。     2011.7.25

  69 美の価値基準

 日本人は、品格とか品性と言って、品質の高さを求めて来ました。
 画品(がひん)というのが絵の最高レベルでしたが、このごろは聞かれません。
 上手(じょうず)物・下手(げて)物と言いますが、下手物を求める人や、下手物喰いの人もいます。好みの多様性です。
 「上品な味」は素材の味が生かされます。
 「おいしい」は美味しいと書きますが、普通の評価です。
 「味わい」という言葉は食物以外にも使われ、美的評価でもあり、あと味が良いとか悪いとか時間を経てからも評価されました。
 音楽も「味のある演奏」と言います。
 雅楽では、音色と言わず音味(ねあじ)と言うそうで、味のある音の楽器が作られたのです。
 楽器に味を求めたら量産は出来ませんから、貴族の楽器だったのです。大衆向きになると味は落ちます。
 日本人の「上品」は、外国とは少し違うと思う。
 ダイヤモンドではなく真珠です。
 金ではなく銀です。
 平安貴族が銀を好んだ話を「雅楽と歴史」の項で書きましたが、シルクロードの影響だけではないように思う。
 武士は金のきらびやかさを好みました。勝利や栄光の表われでしょう。その半面、いさぎよく散る桜を好んだのも武士の時代からだと言います。
 「渋い」とか「わび・さび」は控目な美です。富を誇示しいないようにという時代の表われでしょう。
 旅行者が外国で好感を得る身なりは、清潔感だそうです。清楚な感じは、人柄も知れて安心出来るのかも知れません。
 品よくあるためには、物質的にも精神的にも「散らかさない」心遣いが要求され、そのような心遣いであるためには緊張感が伴います。
 緊張と解放のバランスが保てる自己訓練が出来るとよいのです。
 「おしゃれ」もあれば「だじゃれ」もあり、遊び心は「ゆとり」ですから、気張らずに「さらり」と笑えたらよいでしょう。
 昔の人は美を端的に判断するために「キレイ」「キタナイ」という言葉にまとめていました。
 上品な人はキレイ。
 不衛生はキタナイ。
 不道得はキタナイ。
 うそつきはキタナイ。
 散らかさない汚さないはキレイ等々。
 そして、どのようにキレイかキタナイかという分類もあって、「この程度ならいいか」という許容範囲もあったのです。
 そうした中で、衛生美は絶対です。不衛生は「死」という「絶対」につながる恐れがあるからです。
 約束違反がキタナイと言われているうちはよいけれど、武士ならば切腹、庶民は信用を無くすとなれば、約束は絶対でした。
 精神衛生美もあり、心持のキレイナ人などと言い、身も心も「すこやか」であって欲しいと願ったのです。
 日本人ならではのもう一つの美に「しっとり」があります。「うるおい」「しめりけ」などとも言い、ウエットではなく乾いているのにしっとりとした感じを言います。
 楽器の音も、絵の色も、人柄も、しっとりした感じを良しとしたのです。
  「たたなづく青垣山
    こもれる大和しうるわし」
 青垣山があるからうるわしいのです。時代が下がると、ドライなうるわしを感じます。しっとりとしたうるわしではありません。
 復古調の作詞は、
  「うるわしき桜貝一つ・・・」の歌。
 潮の香を感じ、それを拾った人の憂いを感じるからうるわしいのです。「余情」と言います。     2011.8.15
 
 
70 「しっとり」について

 前項で「しっとり」は「うるおい」や「しめりけ」だと言いました。水にかかわる言葉です。
 「山紫水明」と言うように、日本美には欠かせない源流の一つです。山水画はもとより、日本画には水辺・霧・霞・雲などが描かれています。
 芭蕉の奥の細道の句にも、雨・川・海などが読まれています。
 「夏草や‥‥」は水が出て来ませんが、草のみずみずしさが「うるおい」を連想させます。
  「閑(しずか)さや
    岩にしみ入る蝉の声」
 これを外国人に説明するのは難しかろうと思う。
 静かと蝉の声が一体となっており、蝉は一匹や二匹ではないでしょう。
 この蝉の声で静かさを強調するのが日本人の感性です。
 絵や舞踊にも、醜を美しく表現している例もあり、おそらく外国には例がないと思います。
 問題は「しみ入る」です。これで水を感じなければいけません。漢字で書けば「染み入る」で、「染」の字には三水偏が使われています。
 蝉の声が岩にしみ込んで行くなどと、外国人が連想出来るでしょうか?これが日本人の美学です。
 雅楽の笙の音は「蝉の声」だと言います。その説明は「笙の研究19」に書きましたが、どの笙も蝉の声がするわけではありません。リードの音は、夏の青空のように晴れやかでなければいけないとも書きましたが、乾いた音を作らなければ「しっとり」した和音にならないから不思議です。
 笙は伴奏楽器というだけでなく、しっとりした和音の移ろいによって、一人で吹いても楽しめるのです。
 ヨーロッパの国々は、それぞれの伝統を大切にしています。
 人類には共通の感性があり、気候風土と生活習慣によって眠ってしまった感性もあるでしょう。その眠りを覚ましてくれる文化に出合ったときに感動するのです。
 日本人は洋風の生活になれて、古風な感性が居眠りを始めていませんか?
 水辺の暮らしから遠のいて、しっとり感が薄れていませんか?
 「しとやか」は「しっとりやか」でしょう。漢字で「淑やか」と書き、これも三水偏がつきます。
 しとやかな人は和装でも洋装でもしとやかです。黙って座っていても、にじみ出るものがあります。
 そのような人がスポーティだったりするのです。
 時代が変っても不易流行であって欲しい。さもないと流行に翻弄されるだけです。

 蛇足ですが、花粉症の「木こり」が居たと思いますか?花粉症は食べ物のせいです。昔の話は参考になりませんか?
            2011.10.3

  
71 不易でない不易

 不易とは、変わらないという意味で、それに新しいものをミックスさせるのが日本の文化でした。
 最近のテレビで、燈籠流(とうろうながし)に、「平和」とか「東日本被災地の復興」などと書かれているのがありました。
 「鎮魂」も有ったからよいのですが、精霊流(しょうりょうながし)と同じだということを理解する人しない人の違いはどこにあるのでしょうか。
 何年か前、隅田川で流雛(ながしびな)が始められたとテレビで報道され、その中に「算数が好きになりますように」というのがありました。
 七夕ではないのです。
 由来など関係なくなっており、報道する側も疑問に思わないらしい。
 地域によっては、本来の解釈で伝統を守っている所もあるのですから、教育のあり方が問題です。
 私の住む台東区では「蝋燭能」というポスターが出ていた。
 「薪能」があるから蝋燭能も有りさ、ということでしょうか。ならば一層のことシャンデリアを釣って「シャンデリア能」と言えば新旧のミックスになるでしょう。
 本来の薪能とは、神社でその年に薪を使い始める儀式に奉納する能のことです。どこの神社かお調べ下さい。
 劇場で奉納演奏はありえません。
 雅楽は、千三百年の伝統がありながら、宗教音楽から離れた人が目立つようになり、邪道と言われています。世代が代わると、本道さえ本質を見失っているようです。
 楽器も同様で、低辺が広がれば低辺向きの需要が多くなり、音の質を高める修行が疎くなります。
 質を高めるのを趣味にしてくれる人が多くなって欲しい。
 これは特定の分野に限ったことではありません。ものごとの「本質」を知って欲しい。
 上辺(うわべ)だけ真似るからズレてしまうのです。
 今年は「自粛」でお祭りをしない所が多いらしい。今まで神に何を祈って来たのかと思う。
                2011.10.3

 
72「しっとり」について

 前項で「しっとり」は「うるおい」や「しめりけ」だと言いました。水にかかわる言葉です。
 「山紫水明」と言うように、日本美には欠かせない源流の一つです。山水画はもとより、日本画には水辺・霧・霞・雲などが描かれています。
 芭蕉の奥の細道の句にも、雨・川・海などが読まれています。
 「夏草や‥‥」は水が出て来ませんが、草のみずみずしさが「うるおい」を連想させます。
  「閑(しずか)さや
    岩にしみ入る蝉の声」
 これを外国人に説明するのは難しかろうと思う。
 静かと蝉の声が一体となっており、蝉は一匹や二匹ではないでしょう。
 この蝉の声で静かさを強調するのが日本人の感性です。
 絵や舞踊にも、醜を美しく表現している例もあり、おそらく外国には例がないと思います。
 問題は「しみ入る」です。これで水を感じなければいけません。漢字で書けば「染み入る」で、「染」の字には三水偏が使われています。
 蝉の声が岩にしみ込んで行くなどと、外国人が連想出来るでしょうか?これが日本人の美学です。
 雅楽の笙の音は「蝉の声」だと言います。その説明は「笙の研究19」に書きましたが、どの笙も蝉の声がするわけではありません。リードの音は、夏の青空のように晴れやかでなければいけないとも書きましたが、乾いた音を作らなければ「しっとり」した和音にならないから不思議です。
 笙は伴奏楽器というだけでなく、しっとりした和音の移ろいによって、一人で吹いても楽しめるのです。
 ヨーロッパの国々は、それぞれの伝統を大切にしています。
 人類には共通の感性があり、気候風土と生活習慣によって眠ってしまった感性もあるでしょう。その眠りを覚ましてくれる文化に出合ったときに感動するのです。
 日本人は洋風の生活になれて、古風な感性が居眠りを始めていませんか?
 水辺の暮らしから遠のいて、しっとり感が薄れていませんか?
 「しとやか」は「しっとりやか」でしょう。漢字で「淑やか」と書き、これも三水偏がつきます。
 しとやかな人は和装でも洋装でもしとやかです。黙って座っていても、にじみ出るものがあります。
 そのような人がスポーティだったりするのです。
 時代が変っても不易流行であって欲しい。さもないと流行に翻弄されるだけです。

 蛇足ですが、花粉症の「木こり」が居たと思いますか?花粉症は食べ物のせいです。昔の話は参考になりませんか?
                     2012.05.20

 
    










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