雅楽と歴史 T

 1、誄歌(るいか)の解説に異議あり

 倭健命が亡くなったとき、后や御子たちが墓を作り、『田にはい廻って泣きながら』という解説に疑問を持ちました。墓を離れて『田にはい廻る』のはなぜだろうと。
 古事記を開いてみました。やはり、『田にはい廻る』と書いてあります。歌の意味は、『稲幹(いながら)に廻りつく野老蔓(ところづら)のようだ』であり、后や御子たちの泣く姿が野老蔓のようだと歌っているのです。
 こうなると、古事記の本文そのものに問題があるのではないか、ということになります。古事記が書き替えられているであろう、という説はありますし、政治的意図はもちろん、風俗の解釈においても時代感覚で書き替えられると思うのです。
 年表を調べてみます。倭健命の時代に稲刈りをしていたとは考えにくく、稲穂を摘み取っていたはずだと思うからです。平安時代『841年、大和宇陀郡の人、稲を干すに稲機(いなはた、はさ)を用う、これを諸国に用いしむ』とあります。
 やはり、倭健命のころは稲を刈らずに穂を摘んでいたのです。だから、稲の幹に野老蔓がからみついているのです。
 当時の貴人の埋葬風習は、一度土に埋め、後日白骨を掘り起こしてきれいに洗い、立派な御陵に埋葬し直したとのこと。だから、后や御子たちの作った墓は土饅頭であり、その廻りにとりついて泣く姿が、稲幹にまとわる蔓草(つるくさ)のようだ、となるのです。
 おそらく、古事記の本文を書き替えたのは江戸時代の学者でありましょう。彼らの判断する稲田にしてしまったのです。

 野老蔓(ところづら)は、野老(ところ)蔓(かずら)であり、別名おにどころ。
 葉茎共にヤマイモに似ているが、根は苦く堅くて食せない。芋に生えた白く長い根を老人のひげに見立て、海老(えび)と共に正月飾りとし長寿のしるしとした。


 長寿のほかに、蔓が長く伸びることから転じて長く久しいという意味が含まれ、野老蔓のように長いこと墓に取りすがっていた、という掛け言葉になります。

 2、 子守歌のしょうの笛
 子守歌の主人公について考証してみます。
 時代は明治、大正。子守をしているのは女の子。小学校へは3年しか行かせてもらえず、子守奉公に出されます。多少でも給金がもらえるのはもう少し年上で、それなりの職場へ行くのですが、子守に給金は出ません。親とすれば、食べさせてもらえるだけでよいのです。
 娘は里の村祭りの日に休暇がもらえるのを楽しみに、他家で暮らしています。当日の朝、主人が娘を呼んで巾着(きんちゃく)に手を突っ込み、小銭をつかんで娘に与えます。今の金額ならは、100円玉を大人が片手でつかむ程の量です。
 娘はそれを手ぬぐいに包み、ふところに入れて着物の上から両手でおさえ、落とさないように気を付けながら家路を急ぎます。
 なぜ村祭りの日かというと、村人の最大の娯楽であるのはいうまでもありませんが、子供がおもちゃを買えるのはその日しかないのです。村にはおもちゃを売る店がないのです。
 娘は、主人にもらった小銭を親に渡します。親は喜び娘を誉めます。その一言で一年の苦労が癒されます。親は「これで飴でも買いな」とか言って200円渡します。
 娘は昼食を済ませて神社へ行き、お参りをし、にぎわいの中を歩いて出店のおもちゃを買います。でんでん太鼓としょうの笛。今の金額ならば一つ100円です。100円ショップと思って下さい。
 それを手にすると奉公先へ急ぎます。日が暮れないうちに戻らなければなりません。
 でんでん太鼓は赤ん坊ににぎらせ、しょうの笛は「わたしが吹いてあげるからね」と言って吹きます。赤ん坊のみやげは口実で、本当は自分が吹きたかったのです。どんな笛であれ、赤ん坊に吹けるはずはありません。
                   2000.05.16

 3,雅楽が沢山作曲された時代
 宮内庁楽部の公演パンフレットから、雅楽の作曲された年代を集計してみましたら、平安時代初期の仁明(にんみょう)天皇の時代に多く作られているのを知りました。
 『雅楽への招待(小学館)』の東儀俊美先生の解説にも仁明天皇のころから100年ほどの間に雅楽の名人が沢山輩出したことが書かれています。 
 時代背景が気になるのです。怨霊鎮めと雅楽と関係があるのではないかと。

 私が雅楽を習い始めたとき、雅楽は喜怒哀楽を超越した音楽ではないかと思いました。私が習ったのが笙であったため、なおさらそのように感じたのかもしれません。
 笙の和音は不協和音であり、メイジャーともマイナーともつきません。曲には盤渉調というマイナーの調子があるのですが、笙の和音は、ことさらマイナーになるわけではないのです。なぜそのような表現を求めたのかと思います。

 王朝文学の精神は『あわれ』であり、滅び行くものに対する憐憫(れんびん)の情だといいます。この憐憫の情は、敗者を客観的に見ているだけでなく、自分が滅ぼしてしまった相手に対する「恐れ」と「鎮魂」の思いが込められています。
 この心は、縄文以来、民間に伝わる祈りの心であり『たたり』として恐れてきたものです。
 『まつり』とは「まつろわぬものを、まつろわしめる」のだそうで、荒ぶる神や、たたりなす霊にお鎮まりいただき、幸をもたらしてくれるように祈る信仰だとのこと。
 『たたり』は「手垂り」で、霊界から手を垂れて悪事をなすという解釈だそうです。祓(はらえ)といって身の「けがれ」を神様に祓っていただき、芸能を奉納して「たたりなすもの」にお鎮まりいただきます。
 仏教と混合して、成仏を祈ることにもつながって行きます。やがては、天台、真言の密教による調伏追善の修法、つまり加持祈祷も行われるようになります。

 「たたり」も「あわれ」も強者の理念ではありません。敗者の理念です。しかし、たたりにおびえ鎮魂を祈る人も、出世欲には勝てず、目の前の栄誉に手を汚すことになるのでした。

 早良(さわら)親王のたたり
 早良親王は桓武天皇の同母弟で、桓武の皇太子になっておりました。
 桓武天皇は、奈良から平安京に移る前に長岡京に遷都しようとして、藤原種継(式家)に指揮をまかせました。種継はそれだけ天皇の信任があったわけで、ねたみに思う人もいたことでしょう。種継は暗殺され、種継と対立していた皇太子の一派のしわざに違いないと疑われます。
 天皇になるのを約束されている人が謀反もないもので、皇太子の座をねらう一派の陰謀に違いありません。
 早良親王は幽閉され都から追放されることになりますが、無実を抗議して飲食物をとらずにおり、都から移送の途中で衰弱死したといいます。遺体は淡路国に運ばれ埋葬されます。
 さてそれからというもの、数年の間に桓武天皇の皇后や夫人らと生母の死があい続きます。また、疫病の流行、洪水など災害もあります。さらには、新皇太子安殿親王の病気が長びきます。
 陰陽師は、早良親王のたたりであると言います。桓武天皇は、神に祈り仏にいのり、淡路の早良親王の墓に使者を遣わして陳謝します。しかし、祈願の甲斐もなく皇太子妃藤原帯子が急病死します。

 桓武天皇 は、ついに長岡京を断念し、平安京に都を定めます。
 しかし、それで異変が治まるわけではありませんでした。大暴風雨によって新京に被害が出ます。天皇は、これも早良親王のたたりと恐れますが、天皇にはほかにも心の痛みがあったのです。
父光仁天皇のとき、皇太子は異母弟の他戸(おさべ)親王でした。親王の母(皇后)は井上内親王といって先帝の娘です。年上の桓武が皇太子になれなかったのは、母の身分が低かったからです。
 事件が起こりました。井上皇后が誰ぞを呪詛したと疑われ、皇后と他戸親王は幽閉され、皇后と皇太子の尊称を剥奪されます。そして、1年半ほど後に二人は同時に死去したとのこと。
 兄の山部(やまべ)親王(後の桓武天皇)(37歳)が皇太子になります。山部親王の夫人には、藤原良継(式家)の娘と良継の弟百川の娘の二人がなっております。ところが藤原百川は、その4年後に急死します。(48歳)その翌年が桓武天皇の即位でした。

 桓武天皇は、それやこれやで心を痛め、亡き人達の供養をします。井上内親王の皇后号を旧に復し、早良親王には崇道天皇の尊号を追贈します。淡路国の墓に、公卿・陰陽師・僧らを遣わして陳謝します。
 それでも天皇の気持ちは晴れず、病気になります。無実と思いながら見殺しにした罪の呵責もあるのでしょう。苦しみの後、「崇道天皇の冥福を祈れ」と遺言して亡くなります。

 平城天皇(安殿親王)が即位します。皇太子には平城天皇の同母弟賀美野親王(後の嵯峨天皇)が立ちます。
 その翌年、桓武の第三王子伊予親王に謀反ありとの理由で、母藤原吉子(南家)と共に幽閉され、二人は共に毒を飲んで死にます。毒殺でしょう。幽閉されていて毒が手に入るわけがありません。生かしておけば、一派の反撃があるかも知れませんから。
 翌々年、平城天皇は在位3年で譲位し、旧都奈良へ帰ってしまいます。

 嵯峨天皇が即位し、異母弟の大伴親王(後の淳和天皇)が皇太子に立ちます。
 その翌年、奈良において平城天皇の愛人薬子らによる謀反ありとのことで、薬子は自殺。兄の藤原仲成(式家)は処刑されます。

 嵯峨天皇の夫人橘嘉智子(かちこ)(30歳)が正式に皇后になります。天皇の即位後6年もたってからのことです。二人の間には正良親王(後の仁明天皇)がおります。桓武天皇がたたりに悩まされて亡くなったときには、正良親王が生まれていますから、母としては我が子にたたりがないようにという願いは大きかったことでしょう。
 嘉智子は、嵯峨天皇の離宮(後の大覚寺)の近くに檀林寺を建て、学問の道場にします。そのために檀林皇后と呼ばれます。
 学問とは、仏教や道教など伝来の学問でしょう。雅楽はというと、宮中に雅楽寮(うたまいのつかさ)の楽人がいました。
 嘉智子の思いを察するならば、雅楽はそれまで外来色の濃い『にぎわい』の音楽ではなく、邪気を祓い神霊を招き、日本人の信仰と結びついた『たましずめ』の音楽でなければならなかったことでしょう。そのためか否か、夫の嵯峨天皇も新曲の制作を奨励したといいます。
 外来のものが日本化するためには、何かのきっかけと、リーダーシップをとる人と、ブームというような時代の要求がなければ可能にならないのです。

 虚弱だった嵯峨天皇は在位14年にして譲位し、淳和天皇が即位します。皇太子に正良親王が立ちます。
 正良親王は藤原良房(北家)の妹順子を妻にし、道康親王(後の文徳天皇)が生まれます。
 淳和天皇は在位10年にして譲位し、仁明天皇が即位します。(推定28〜30歳)。翌年、藤原良房が参議に出世します。良房が頭角を現し始めました。

 仁明天皇即位の翌年が承和(じょうわ)元年(834)であり、雅楽の「承和楽」はこの年号によります。そして、この承和年間に沢山の雅楽曲が作曲されたり、移調されたり、この頃渡来の曲も改作されたりしています。 仁明天皇も「西王楽」を作曲しているとのことで、天皇の雅楽好きもありましょうが、はたしてそれだけだったのでしょうか。母の願いを国家事業として着手したのではないかと思うのです。

 前記の東儀俊美先生の解説には、左方、右方を分けたこと、楽器編成を三管二絃三鼓にしたこと、調子を六調子にまとめたことなどが書かれております。大変な仕事が仁明天皇によって始められたことになります。
 たぶん、天皇をとりまく若い公家達と楽人達によって始められたのではないでしょうか。神社の祭儀式の元になっている延喜式がまとめられたのが延喜年間の913年で、仁明即位から80年後です。雅楽がまとめられたのもそれと平行しているのでしょう。

 仁明天皇の在位もわずか17年ですが、在位中に父嵯峨上皇が没し、その2日後に『承和の変」という事件が起こります。皇太子になっていた淳和上皇の子恒貞親王一派に謀反の疑いありと知れて、皇太子は廃され、支持者の橘逸勢(はやなり)は処刑、一派のものは流罪になります。 
 皇太子には仁明の子道康親王が立ち、その直後に藤原良房が大納言に昇進します。それから数年のうちに良房の娘が道康親王の妻になり、惟仁親王(後の清和天皇)が生まれます。
 「承和の変」も皇太子を交代させるための陰謀に違いありません。

 仁明天皇が病気になってしまいます。亡くなる2年前に年号が変わっていますから、平癒を願ってのことでしょう。しかし、病気は重くなり亡くなります。推定45〜47歳。嘆き悲しんだ母嘉智子は、2ヶ月後に後を追うようにして亡くなります。
 文徳天皇が即位し、子の惟仁親王(後の清和天皇)がわずか2歳で皇太子に立ちます。しかし、文徳天皇は在位8年(31歳)で急死してしまい、10歳の清和天皇が即位します。

 それから5年後、朝廷によって盛大な御霊会(ごりょうえ)が神泉苑でなされます。崇道天皇を始めとする怨みを残して亡くなった人達への鎮魂の儀式です。雅楽寮の楽人による演奏と、公家や良家の稚児による唐舞、高麗舞が奉納されたとのこと。
 朝廷といっても天皇は15歳ですから、このとき太政大臣になっていた藤原良房の裁量でありましょう。清和天皇の母明子は良房の娘ですから、やがて良房は天皇の摂政となります。

 これが野望と鎮魂の図式であり、故に雅楽は喜怒哀楽を超越した華やかさになったのではないでしょうか。そして、笙の音色は、幽界から天上界へ「たゆたい昇る」響きが求められたのだと私は思います。
 祭典楽としての「越天楽」と、宴会楽としての「越天楽」に何の違和感がありましょうか。雅楽の分かる人は、葬儀には盤渉調の越天楽を奏します。しかし、平調の越天楽であっても違和感はありません。この不思議さが雅楽であり、喜怒哀楽を超越してこそ可能なのです。

 伎楽は、面も踊りも喜怒哀楽を露骨に表しています。言い換えれば、すなおに誇張的に表現しています。伎楽は、神々でさえこっけいなほど誇張的です。このようなコミックは、心はずむときに見れば楽しかろうけど、心沈むときに見れば空しいのです。
 
 昔の人は、心沈むとき、心痛むとき、自然の中に癒しを求めました。日本人の暮らしは、物質的にも精神的にも自然の恵みに依存していました。美しい音もまた、自然の音を模して作られたのです。
 雅楽の音は、鳥の声であり、虫の声であり、風の音であり、寄せては返す波の音です。外来の音楽の中から鳥の声を探し、楽器の中に虫の声を求め、楽曲の中に波の反復を見つけようとしたのではないでしょうか。
 楽器をセレクトし、さらに手を加えることを考え、使えるフレーズを組み合わせて曲を改作し、それを元にして作曲もしたのではないでしょうか。舞楽も同様な方法で組み合わせによる作舞がなされたと思うのです。
 古来、雅楽の作曲者は大勢いたようですが、モーツアルトとかベートーベンといった個人の仕事ではありません。どの人も皆、『雅楽』を作曲していたのです。
                   2002.3.8

 4,蘭陵王という人
 「北斉の蘭陵王長恭という美青年の武将が仮面をつけて戦に臨み、周の大軍を破った故事により作られた曲といわれています」−−宮内庁楽部雅楽公演曲目解説より。蘭陵王が戦ったのは、隋王朝が出来る17年前の話です。三国史の時代が終り、王らが天下を競う乱世となりました。その過程で、黄河流域の王達は北朝を称し、揚子江流域の王達は南朝を称しました。
 北朝には皇帝を名乗る王が二人おりました。周の王と斉の王です。周は紀元前1000年ほど前に出来た周王朝の再現であり、斉は周王朝配下の王国でした。
 周王朝が力を失ったとき、大名らが天下を競う日本の戦国時代と同じ状態になりました。老子や孔子のように精神的な国造りを説く人も登場し、孫子のように軍師として王の片腕になる人も登場します。

蘭陵王面
       
 長く続いた戦国時代を終わらせたのは秦国の王であり、始皇帝と名乗ります。始皇帝と雅楽は深いかかわりがあるので少し記してみます。
 始皇帝の政治は苛酷であったため、農民の反発をかっており、始皇帝の死とともに一揆が起きます。大名らも立ち上がります。そして、始皇帝の死後4年にして秦王朝は滅びます。王族らは農民の仕返しを恐れ、日本に亡命します。秦の主都は黄河上流の咸陽(かんよう)でしたから、おそらく船で黄河を下りそのまま海を渡ったのでしょう。
 楽家の東儀家は、聖徳太子の側近の秦河勝(はたのかわかつ)を祖とすると東儀秀樹氏のホームページに書かれています。
 秦河勝は秦の始皇帝の末裔と言われており、秦のつく地名、京都の太秦や神奈川県の秦野などは秦朝末裔の住んだ所と言われています。字は違っても羽田孜元首相も始皇帝の末裔だそうです。始皇帝の王子は20人もいたとのことですから、日本のあちこちに大勢の末裔がいることでしょう。
 時代は秦から漢になり、三国史の時代になり、そして蘭陵王の戦った南北朝の時代になりました。このとき周の都は長安であり、斉は周王朝の主都であった洛陽を都にしています。
 中国で洛陽が都だった時代は長く、日本で京都へ行くのを上洛と言いますが、洛陽へ行くのを上洛と言っていたのです。
 だから、洛陽を奪還しなければ天下に示しがつきません。兵を出して洛陽を包囲します。この有様を中国の学者の研究から引用します。 古書より「蘭陵王は,芒(ハオ)山の戦において、わずか五百騎で十万の周軍包囲陣に突入し、洛陽城を解放した」
 中国の都市は城壁で囲まれていますから、敵も直ぐには攻められません。蘭陵という地方の出城から援軍が向かいます。ほかの出城からも来たことでしょう。しかし大軍を前にして攻めあぐねます。
 恐ろしい面をつければ勝てるというものではありません。私は地図を見ながら考えました。これは義経の鵯越(ひよどりごえ)ではないかと。



 芒山は洛陽の南側にあり、洛陽の北側は黄河です。周軍は洛陽と芒山の間に布陣したに違いありません。芒山に登れば敵陣を背後から見下ろすことになります。一気に山を駆けおり突入すれば五百騎でも攻められるかも知れません。
 ふいを突かれた敵はおどろきます。後の山は見れば土煙が上がっていてどれだけの兵が続くのかわかりません。一角が崩れて逃走する兵が出れば、他の兵らも連鎖反応でくもの子を散らすように四散してしまいます。
 見たように言いますが、あり得ることなのです。
 
 中国の学者の研究によると、蘭陵王の兵は自国の兵だけでなく近在の少数民族の兵なども加わった混成軍であったとのこと。蘭陵王の少ない兵でさえ混成であるのに十万の大軍が混成でないはずはありません。「史記」や「三国史」でも十万二十万の大軍が一瞬にして四散してしまう例はあるのです。
 「兵隊に入れば、とりあえず食える」という人もいるわけで、負け戦とわかれば逃げ出します。ついでに記すならば、このような状態になった場合は、軍を指揮していた王は、単身でひたすら馬を走らせて城へ逃げ帰ります。自分の部下に首を取られ、敵方へ恩賞として差し出される恐れがあるからです。事実、そのような例もあったのです。
 周軍を指揮していたのは将軍でしたから、敗軍の将の首を取っても恩賞になりません。しかし、この敗軍の将が天下を取ることになるのですけれど。

 洛陽城においては、戦勝祝賀会が催されます。このとき「蘭陵王入陣曲」が作られ舞われたとのこと。当初の舞は、戦闘を模した動きの激しいものであったようです。それはそうでしょう。蘭陵王の戦いぶりを見た人達が舞うのですから。
 唐の時代になると、優美な舞が好まれるようになり蘭陵王の舞も軟舞(やわらかな舞)に編入されたとのこと。日本に伝えられたのは唐の時代であり、それが今日まで伝わっているのです。私は、もっと躍動感が欲しいじれったさを感じていたのですが、そのようなわけでした。
 さて、斉の国ではやがて皇帝が代替わりし、蘭陵王のいとこの高緯が皇帝になります。
 新帝高緯は猜疑心の強い人で、蘭陵王の人気が高まっているのをねたみます。そして、宴会に招いて毒殺してしまいます。そのとき蘭陵王は30歳、勝利をおさめたときから10年後のことでした。
 蘭陵王には弟もおり、叔父達もおりましたから、二代皇帝は翌年廃されるのですが代わりがおりません。結局周軍に攻められて蘭陵王死後3年にして斉は滅亡(577年)します。
 これで周が安泰というわけにはいかなかったのです。斉を攻めた周の将軍楊堅(ようけん)は、勢いに乗って中国全土を平定し隋を建国して文帝となります。斉の滅亡から4年後です。
 隋の2代目が煬帝(ようだい)ですが(ようてい)といわず(ようだい)というのは民を苦しめたため軽べつして呼ぶとのことです。この煬帝のときに遣隋使として小野妹子が使わされており、蘭陵王の死から30年ほど後のことです。ちなみに、蘭陵王が毒殺された年に日本では聖徳太子が誕生しています。
 隋は唐と並んで日本に多大な文化をもたらしたのですが、 煬帝の大運河建設は農民に大きな負担となり、農民の反乱によって煬帝は殺され隋が滅びます。聖徳太子の存命中に隋が生まれ隋が滅びているのです。
 このような目まぐるしい変遷の中に蘭陵王の活躍と短い生涯があったのです。蘭陵王の墓は現存し、中国の人たちに祀られているとのことです。
                    2002.12.5


 5 還城楽と韋后の乱
 「唐の玄宗皇帝が韋后(いこう)の乱を平定して、夜半に帰城したとき夜半楽(やはんらく)と還城楽(げんじょうらく)を作ったといわれている。一名を見蛇楽(けんじゃらく)といい、蛇を好んで食べる胡人がこれを見つけ捕らえ喜ぶ姿の舞ともいわれている」 宮内庁楽部雅楽公演曲目解説より

 韋后の乱て何だろう、どうして胡人の舞なのだろう、と思ったのです。



 則天武后は、高宗が病気になると政治を執り、高宗が死ぬと中宋が即位したが、間もなくこれを廃して弟睿宋を立てて別殿におき、政権を握った。
 武后が死ぬと中宋が復位。
 中宋の皇后韋氏は、寵臣との不義の露見をおそれ夫の中宋を毒殺、子の殤帝を立てて政権を握ろうとする。これを韋后の乱という。
 李隆基(のちの玄宗)が韋后の乱を平定、韋后を殺して父睿宋を立てる。2年後、玄宗が即位(21歳)。楊貴妃が登場するのは玄宗60歳のとき。

 戦の後、夜半に帰城して、休みもせずに作曲したのかと思ったのは私だけだろうか。たぶん帰城したときの思いを兵達の誰かが曲にしたということでありましょう。

 胡人というのは特定の国や民族のことではなく、中国の北方や西方や南方の外民族を総称してそのように呼んだとのこと。だから、従軍した兵の中に外民族が参加していたのでしょう。そして、戦勝の喜びと蛇を捕らえたときの喜びとをダブルイメージして舞にしたのでしょう。
 しかし、蛇を好んで食するのがどこの民族かは別の研究が必要です。
 蘭陵王に関しては中国での研究が進んでいるようで、かなりはっきりしています。『陵王が率いた部族は、鮮卑・匈奴・柔然・勅勒(ちょくろく)などの諸民族による胡人部隊であった』とのこと。 蘭陵王の曲には沙陀調音取というのが付いています。沙陀は沙陀族のことで、敦煌の北、ハミのあたりに居住する西突蕨(とっけつ)の一部が沙陀突蕨と呼ばれていたとのこと。
 鮮卑・匈奴・柔然・勅勒は、モンゴルと先祖を同じくするツングースの系統であるといいます。蘭陵王の一族は鮮卑族であるとのことで、陵王の胡人部隊は漢民族から見た胡人(外民族)であって、陵王側としては同民族の別部族ということになります。

 ついでに記します。
 高句麗は高朱蒙が分家から本家へ婿養子になったときに国号を変えたのであり、それ以前は夫余(ふよ)と号し高氏を名乗る鮮卑族の系統です。
 蘭陵王は高粛が本名で、長恭は別名で、一族は高氏です。そうなると、高朱蒙と蘭陵王は同族で、鮮卑族の高氏ということになります。
 さらに、隋の煬帝も鮮卑族であるとのこと。
 ついでに記すならば、平安時代の初期に書き改められた近畿地方に住む役人の人別帳の中に、楊隻忌寸という名があり、隋煬帝の後遠と記されています。煬帝は農民の反乱で殺されていますから、王子達は始皇帝の皇子らのように船で黄河を下り、日本へ亡命したと考えられます。

 話を元にもどし、中国の民族と音楽の関係を考えますと、中国は漢民族だけの国ではなく、幾多の民族が共存したり争ったりしながら、音楽においても併存したりミックスしたりしながら存在していたと考えられます。
 漢民族にとっての異民族支配は、元と清の時代だけではなかったのです。
 漢という字は河を意味します。銀河のことを銀漢というように。そして河は黄河です。豊かな黄河の流域を支配したくて外民族が侵入したり、家臣として仕えているうちに主家を倒して支配者になったり、あるいは無事に共存したりしていたのでしょう。
 そのようなわけで、玄宗が率いた兵の中に外民族がおり、彼らによって還城楽が作曲され舞われた故に胡人の舞というのでしょう。 
                     2003.2.16

 
6,舞楽新靺鞨(しんまか)と高句麗の神話
 「靺鞨国(沿海州にあった国)より渡来し、礼拝舞踏をあらわしている。この高麗を経てわが国に伝わったという説と、白河天皇(1072〜1086)の御時、勅命により藤原俊綱が作舞したという説がある。」宮内庁楽部雅楽公演曲目解説より

 ツングース族の中に靺鞨(まっかつ)七部族というのがあり、中でも鴨緑江流域に住む粟末(ぞくまつ)靺鞨とアムール河流域に住む黒水(こくすい)靺鞨が知られています。
 黒水靺鞨は樺太から北海道へ渡り、本州まで南下したエゾと呼ばれるアイヌと同族の縄文人のようです。粟末靺鞨の一部は朝鮮半島を南下して九州に移り住んだとのこと。
 中国の殷から周の時代の朝鮮半島は、夫余(ふよ)というツングース系鮮卑族の王朝が支配していました。ツングースの中でもモンゴルに近い騎馬民族のようです。半島の北部が本拠地で、半島は王族や豪族が分治していました。
 夫余国は黒水靺鞨とは折合いが悪く、粟末靺鞨と親交がありました。つまり、日本の天孫族とエゾは大陸に居たころから折合いが悪かったのです。
 夫余国が高句麗国に名を変えたころの話です。
 高句麗の始祖高朱蒙の父は高慕漱(こうぼそう)といい夫余王朝の分家の王でした。あるとき王は西方の粟末靺鞨の国、?婁(ゆうろう)国へ旅に出ます。?婁の王を神話で河伯(水神)といいます。
 高慕漱は河伯の娘と結ばれて子を授けたのち帰国します。生まれた子が高朱蒙です。七歳にして自ら弓矢を作り、百発百中したといいます。
 そこで気を回したのが本家の国人です。
 高朱蒙の父の領地は半島の東の付け根あたりで、母の?婁国は半島の西の付け根あたりです。本家の直轄地はその中間北部ですから、間に挟まれて危険を感じたのでしょう。
 高朱蒙を殺しに兵を出します。少年高朱蒙は家来に守られ、母とともに父の領地へ逃れようとします。そして、鴨緑江まで来ましたが橋は無く、追手は迫ってきます。
 高朱蒙は水に向かって言います。「我は天帝の子にして河伯の外孫なり、今、逃走するに追うもの近づいていかにせん」ここに於いて、魚鼈(ぎょべつ、魚とすっぽん)浮かび出でて橋となり、渡ることを得たり。
 父の領地で成長します。
 本家の王に後継がなく、王の娘婿となって国名を高句麗と改めます。少年時代の高朱蒙を殺そうとするほど同族間が離反していたわけで、国名を変えて結束をうながしたのではないでしょうか。BC37年のことです。

 中国が唐の時代になった頃、唐は陸路で高句麗を攻め、海路で百済を攻めます。新羅は唐に味方して百済を攻めます。日本から百済へ援軍が向かいます。
 しかし、白村江の戦いで日本軍は破れ、百済は滅びます。663年、天智天皇のときです。続いて668年、高句麗が滅びます。
 675年、新羅は百済を併合して朝鮮全土を支配します。そして日本へ入貢を望み使者が度々来朝しますが、日本側は冷淡であったようです。一方、百済と高句麗の亡命者は多数受け入れ、特に百済の知識人や技術者は優遇されたとのこと。高句麗王若光とその一党は関東に高麗(こま)郷を与えられ、王は高麗神社の祖となります。高を名乗る子孫と同行した人達の子孫がいるわけです。

 靺鞨の?婁国は高句麗滅亡後、高句麗の遺臣と力を合わせ唐の勢力を押しのけて渤海国(ぼっかい)を立てます。698年のこと。そして、727年に日本へ使者を送って以来200年ほど国交が続いたとのこと。この渤海国を新靺鞨(しんまか)と呼んだのでなないでしょうか。
 渤海国は半島の北部に勢力を広め、かっての高句麗領を含め現ハバロフスクのあたりまで治めていました。
 渤海から日本へは、現北朝鮮の北端の港から日本海を渡って敦賀へ着くルートがあったようです。
 やがて唐との国交も行われるようになり、奈良から平安時代にかけては、唐と渤海が国交の相手だったわけです。
 高麗(こうらい)の建国は、唐も渤海も新羅も滅びてからのことですから、解説文の「高麗を経てわが国に伝わった」というのは疑問に思います。そして、唐楽・高麗楽という呼び名が出来たという平安時代の当時には高麗という国はまだ出来ていません。
 半島より雅楽を伝えたのが「狛(こま)氏」だから狛楽が高麗楽になったのかと思ってみるのですが、高麗はコーリアであり、なぜコマと読むのか知りたいと思います。馬をコマと言いますから騎馬民族をコマと言ったのかと考えたりします。
 903年、菅原道真(59歳)没
 907年、唐滅ぶ
 916年、契丹国が出来、926年渤海国が滅ぶ。
 918年、高麗の建国、935年新羅滅ぶ。
 以上靺鞨族関連でした。
                  2003.3.7

 
7,楽器「阮咸」あれこれ

 バンジョーに似たこの楽器は、竹林の七賢の一人阮咸(げんかん)という人の考案したものだということは、知るひとも多いでしょう。
 竹林の七賢は三国志の時代の魏の国にいた人達です。
 竹林とは竹の林ではなく、居酒屋をそのように呼ぶのだとのこと。彼等七人は、中央にいれば大臣になれる身分だそうで、それをあえて地方の長官になっているのだといいます。出世を望まないのではなく、中央にいては命がいくつあっても足りない時代だったようです。
 曹操の子の曹丕(そうひ)が魏の初代皇帝になったのですが、父に似ず気の小さい人のようでした。
 その例は、詩人として有名な弟の曹植(そうしょく)との「七歩の才」の故事で知られています。弟の才能をねたみ、七歩あるくうちに詩が作れなかったら首をはねると命じます。
 このような主人には仕えずらい人もいますから、中央政界を離れ地方に下る人も出てくるわけです。
 居酒屋で天下を語り、酔えば詩を吟じ、琵琶を弾いたりします。そして楽器まで作る人がいたということでしょう。
 中国には陸沈(りくちん)という言葉があり、隠者の生き方を言うのだそうで、竹林の七賢もその中に入っています。
 太公望や諸葛孔明は、国の創始者に見出だされた人ですが、別の時代だったら陸沈になっていたかもしれません。
 阮咸は楽器とともに名を残したわけですが、彼の人柄や知識に隠者としての魅力があったことでしょう。
 七賢の一人、?康(けいこう)という人は、政治批判が権力者の耳に届いて殺されてしまったとのこと。
 曹丕が皇帝になって以後、45年で魏は滅びます。その間に皇帝が5人も交替するのですから、いかに不安定だったことか。
 このような時代に邪馬台国は魏と交流があったわけです。しかし、比べてみますと、中国ではすでに沢山の記録が残されているのに、日本では卑弥呼も邪馬台国も、他国の記録に頼るしかないのです。
 記録を残すことがいかに大切かと思うのですが、今のように出版物の多い時代は、残すべきものを選択できるだろうかと心配になります。
                       2003.5.10

 
8,舞楽「蘇志摩利(そしまり)」あれこれ
 「高天原(たかまがはら)を逐(お)われ、新羅に渡られた素戔鳴命(すさのうのみこと)が曽尸茂利(そしもり)というところで大雨に会われ、青草で作った簑笠で雨を凌(しの)がれた故事を基にしてできた舞と伝えられています。」宮内庁楽部雅楽演奏会曲目解説より
 この解説を読んで、はてな、どうなっているのかなと思いました。高天原が朝鮮半島のどこかでないと、この解説はピンとこないのです。
 スサノウノミコトと新羅のソシモリとは関連性がないと説く学者もいますが、宮内庁楽部の解説が関連づけているのですから、あながち否定はできないでしょう。
 高句麗の歴史を記した「桓檀古記(かんだんこき)」の一説を引用します。
 「豆只(ずし)州の?邑(わいゆう)に謀反あり、その酋長の素尸毛犁(そしもり)を斬らしむ。孫に陝野奴という者あり、海上に逃れて三島に拠り、天王を潜称す」
 新羅の北方に?(わい)という国があり、夫余王朝の王族が治めていました。邑は「むら」という場合が多いですが、諸侯の領土という意味もあります。人の名前が地名になったり、地名が人名になったりする例はよくあります。
 三島(さんとう)は三神山(さんしんざん)ともいい、古代中国において東方海上にあって仙人の住むという三つの山を想定したものであり、日本列島がその島に該当していました。
 僣称(せんしょう)とは「かってに身分を越えて上の称号を自称すること」高句麗の支配者には、天皇、天王、天帝などの表記があります。半島での野望を失ったソシモリことスサノウあるいはその子孫は、三島を支配して天王を自称したわけです。
 解説中に新羅とありますが、それは物語の場所を示すためであり、当時はまだ新羅という国は出来ておりません。くわしい年代は定かではありませんが、高句麗の前身の夫余王朝の時代であり、B・C3〜4世紀の頃と思われます。
 その頃、日本列島にスサノオ王朝が出来たことになります。
                    2003.9.15

 
 
9,たたりと雅楽

 雅楽の音楽性を考える上で、「たたり」との関連は軽視できないような気がします。
 しかし、宮内庁楽部には、たたりに関する伝承はないかも知れません。なぜならば、自分達の雇主の陰謀にかかわることを、うっかり口に出来ないからです。だから、雅楽の精神性を語るのに「夜道で笛を吹きながら歩いていたら盗賊が襲うのをためらった」というような言い方で、荒ぶる心を鎮めることが出来ると説明するのだと思います。

 平安京の遷都に前後して、4人の皇太子と皇后・妃の都合6人の皇族が殺害されています。関連して公家も暗殺されたり処刑されたりしていますが、公家の死者はたたりの内に入っていません。
 6人のたたりがあるわけですが、その中の筆頭は桓武天皇の弟の早良親王のたたりです。 陰謀というのは、天皇の後継をめぐる公家らの権力争いです。当時の名門は、大伴、橘、紀、藤原四家などあり、それぞれ天皇家に妹や娘を嫁がせていました。娘の夫が天皇になることを画策し、皇太子の座を得ようとします。
 座を奪われる側の皇太子は、罪をでっち上げられ捕らえられ毒殺されますが、早良親王だけは毒殺を嫌ってか飲食物を口にせず、無実を訴えながら餓死したとのこと。
 桓武天皇の陰謀であったという説もありますが、自分も担ぎ出された天皇であるため、発言力がなく弟を見殺しにした、と解釈した方が順当に思えます。しかし、弟は兄を怨み、たたりの対象になります。
 阿部晴明が当時の人々であれば鎮めることが出来たかもしれませんが、時代がだいぶ離れております。

 たたりを恐れる人は多かったでしょうが、解決方法に雅楽を思いついたのは、桓武天皇の第二皇子(後の嵯峨天皇)の妻橘嘉智子であろうと推理します。
 桓武の後を継いだ第一皇子の平城天皇は、在位3年で譲位し弟の嵯峨天皇が後を継ぎます。
 この時点で、嘉智子は夫に願い出て、たたりを鎮めるのに加持祈祷でダメなら歌舞音曲でと申し出たと思うのです。二人の間には正良(まさら)親王(後の仁明天皇)がおり、母としては息子を護りたいわけですから。
 嵯峨天皇は「新曲の作曲を奨励した」とのことで、雅楽には関心があったようですが、「奨励」という言葉には積極性が感じられません。自ら進んでするのではないし、命令しているわけでもありません。妻にせっつかれて「まあやってごらんよ」、くらいの感じです。
 それでも皇后は檀林寺という寺を建てます。嵯峨野にある檀林寺ですが、元は天龍寺のところにあり、足利尊氏が吉野で亡くなった後醍醐天皇のたたりを恐れて、供養のため天龍寺を建てるに当たり移築したとのこと。
 檀林寺は、学問の道場として建てられたといいますが、この言葉には巾があります。私は雅楽の研究のために建てられたと思います。宮中の儀式で使われる雅楽を改作するとなれば、天皇の承諾を得ているとはいえ、皇后の立場で進められることを快く思わない人もいたことでしょう。
 ひとは橘皇后を檀林皇后と呼んだといいます。この呼び方を誉め言葉と解釈するか、揶揄(やゆ)と解釈するかで寺の意味合いが変わってきます。私は後者だと思います。「御所を離れて何をやっているんだろうね」という気持ちで見ていたのではないでしょうか。
 
 やがて、正良親王が仁明天皇になったとき、大々的な雅楽の改革が始まるわけですが、宮中で研究は出来ないわけで、檀林寺で母の下準備があったからすぐに取りかかれたと思うのです。
 楽器が整理され、使わない楽器は正倉院の倉に納められます。さらに、楽器を作り替えて音色を追求します。音律つまりドレミファは中国の音律のままですから、作曲編曲はそれほど無理はないと思うのですが、音色はまるで違いますから、楽器の試作には年月を要したのではないかと思います。竹も、切ってすぐ使えるわけではありませんし。
 さて、仁明天皇も担ぎ出された人ですから、何をするにも後ろ盾が必要です。橘皇后と仁明天皇をバックアップしたのは藤原北家の冬嗣、良房父子でした。以後、藤原北家は他家を押さえて、平安朝の権勢を手中にすることになります。
 仁明天皇は桓武天皇の孫ですが、桓武から数えて5代目です。陰謀があったり、病弱だったりなどして交代が多かったのです。
 仁明天皇は在位17年、45〜7才程で病死します。雅楽はまに合わなかったのです。母は悲しみのあまり2ヶ月後に亡くなったというのも、失意の思いが大きかったということでしょう。

 それから15年後(863年)に、ようやくたたりを鎮めるための御霊会が施行されます。早良親王をはじめとする、怨みを残して亡くなった皇族6人の鎮魂の儀式です。
 雅楽が奏され、稚児による唐舞・高麗舞が舞われたとのこと。
 子供の舞は童舞(わらべまい)と言って、「迦陵頻」と「胡蝶」の2曲しかありません。おそらく、この舞が日本で作り替えられた最初の舞であり、この御霊会のために作られたものに違いありません。
 私は、この二つの舞が「つがい」で舞われるものだと聞いたときから、幽界と天上界を意味するものだろうと思っておりました。そして、早良親王のたたりを鎮める儀式で舞われたという記録を読んだとき、やはりと思ったのです。
「迦陵頻」はその名の通り天上界を象徴しています。「胡蝶」は昆虫の蝶であり、蝶や蛾は死者の霊が宿ると言われるように、幽界を象徴します。
 それを、あえて子供に舞わせるのです。子供は無邪気というように、邪気がないので神霊が憑依しやすいとのこと。つまり、子供に怨霊を憑依させて天上界へ送ろうという願いなのです。
 この御霊会には「金光明経一部」と「般若心経」が講じられたといいますが、それまでの加持祈祷でおさまらなかった怨霊も、子供の無邪気さに心を動かされたと見てよいのではないでしょうか。
 雅楽はこのようにして神霊を鎮める音楽として、儀式で使われるように作られて行ったのだと思います。
                        2004.2.15

 
10 管楽器の天地人
 笙は別名鳳笙といって鳳凰を型取ったというのは周知のところでしょう。天上界の鳥ということで、笙は天を象徴します。南国には鳳凰のモデルであろうと思われる鳥がいるそうで、鳴き声も笙の音に近いとか。日本では蝉の声をモデルにしたという人もいます。
 篳篥は人の声に近いとのことで、なつかしい響きに感じる人も多いようですが、うめき声に似ているといって気持悪がる人もいます。何とはなしに、人の深層心理を呼び覚ます性質を持った音色かもしれません。
 龍笛は龍の鳴き声を表すとのこと。龍は地と天の間を駆けますが、地に住んでいます。中国に於いては大河を龍と呼び、地下水を伏龍(ふくりゅう)といいます。水は水蒸気となって天に上がり、雨となって降って来ます。それが龍という姿で神格化されたのでしょう。龍笛の声=水の音=龍笛の音色?難しいですね。
 この天地人の三管が揃って雅楽になります。

 楽曲的には、篳篥が主旋律、龍笛が副旋律、笙が和音を受け持っています。座席は、上座から笙、篳篥、笛であり、奏者の左を上座とします。
 演奏者にとって、この位置が互の音を耳にする上で具合がよいのですが、天地人の解釈にも叶っているのでしょう。文で書くときは天地人ですが、実際には地の上に人がおり、人の上に天があります。
 この座席は楽器の上下であり、人の身分とは関係ありません。ただ、琵琶は天皇が奏き、箏は皇后が奏くのだと聞いております。

 宮廷楽師は儀式にたずさわるのが仕事ですが、公家の雅楽はどうだったでしょうか。公家は詩歌管絃を趣味教養にしており、雅楽の技量は楽師と同等だったようです。
 漢詩を作り和歌を読むのも神への祈りがありました。言霊(ことたま)信仰として文学もまた音楽と同様に祈りの気持ちが根底にあったわけです。
 祭政一致の時代のことですから、宮中神事は人心を統一するための政治でもあったわけです。
 蒙古襲来の時、武士が戦っているのに公家は祈っているだけだったといいます。これは非難すべきことではありません。戦うのは武士の仕事であり、祈るのが公家の仕事だからです。
 公家が、神々とともに遊ぶことを忘れ、自分達だけの遊びになったとき、政治も乱れることになります。

 日本の芸術は、音楽、文学、美術、造園等、いずれも祈りの要素を持っておりました。ヨーロッパの芸術も古くは宗教と結びついていました。近代になって芸術は宗教から独立するようになったのです。
 雅楽も欧米の影響を受けて、劇場における鑑賞音楽として親しまれるようになりました。 この頃は、ソロ活動をする人もあり、習う人も「合奏は興味がない、ソロで吹いてみたい」という人もいます。ソロ用の曲も作られたりして、新しいジャンルが出来るのも時代の流れかも知れません。
 古典物を追求したい人も沢山いるわけで、雅楽本来の良さが広く知られるようになれば、それも結構なことです。
                             2004.3.14



 
11 高松塚古墳の主は誰
 梅原猛著「黄泉の王」を読んで異論をとなえてみたくなりました。もちろん雅楽と関連がなければ書きません。
 梅原先生は該当者を、大津皇子と弓削皇子の二人にしぼった上で弓削皇子であろうと説きました。
 梅原説をかいつまんで説明します。
一、天皇か皇子などの身分の高い人であるこ  と。
二、何らかの理由で殺害されたこと。
三、怨霊鎮めの埋葬であること。
四、死亡年代は西暦700年前後であること。 などの解説があり、該当しない人をはずして行くと弓削皇子が残り、万葉集の歌なども引用して、この人に違いないとの主張です。
 そして最後に、「弓削皇子であるという点については可能性が高いとしかいえないと思う。」と記しています。
 私も可能性を追求し、大津皇子であろうと推理します。
 なぜなら、死亡年代と古墳が造られた年代を結びつけることは出来ないと思うからです
。過去に埋葬された骨を、また埋葬しなおすということが有りえないと言えるでしょうか。
 大津皇子は二上山に墓があるわけですが、
その墓を調べてみなければ、そこに骨があるとは言い切れないでしょう。
 「もがり」という風習がありましたが、それは死者を埋葬して白骨化するのを待つ期間を意味します。
 死体が腐敗して行く間は「けがれ」であって祀ることが出来ないという信仰があり、白骨になれば「けがれ」が終わって「喪あがり」になる。骨を掘り返してきれいに洗って埋葬しなおすとのこと。
 大津皇子も別の所から二上山に移されたといいますから「もがり」が行われたわけです。 この「もがり」ですが、親族が二年三年、長ければ五年も喪に服していて、政務に出仕しないことから薄葬令が出されたといいます。 持統天皇が火葬されて以後、皇族の火葬が続くようになったとのことですが、もがりを短くして白骨にならないうちに掘り返すならば、火葬が必要になることでしょう。
白骨にして埋葬しなおす風習は日本だけではないようです。
 オーストラリアから東京芸大に留学して笙を習っていた学生に「もがり」の話をしたところ、オーストラリアの原住民は、死者をハンモックのような網の袋に入れて木につるし、白骨になってから土に埋める風習があった、と語りました。
 火葬について余談をします。今どきの火葬で荼毘(だび)を想像出来ないでしょうから。 私は北アルプスの登山口の村で生まれ、村の青年から山小屋でアルバイトをしたときの話を聞きました。
 戦後ではあしましたが、遭難者をヘリで運ぶのは困難な時代でしたから、死体は現地で荼毘に付します。ドラマで見るでしょうが、材木を井桁に組んで死体を乗せて焼くのです。 親族や友人らが集まります。親族に遺髪が渡され火が着けられます。
 やがて、アルバイトの青年一人を火の番に残して、皆は山小屋へ戻ります。
 朝まで燃すのですが、黒焦になるだけだと言いました。
 林の中に穴を掘って埋め、石を積んでケルンを造ります。人が訪れることは二度とないのです。ケルンは苔むし、暗い林の中、薮の中にひっそりと立っているだけです。

白虎

 話を元に戻しますと、骨を埋めなおす習慣があるならば、一度埋めなおしが済んだら二度と移し替えないと言えるでしょうか。
 次に、弓削皇子の死亡年代です。699年7月21日死亡で、文武天皇の即位が697年とのこと。つまり、文武天皇が即位して2年後に弓削皇子が亡くなっているのです。
 弓削皇子の死に謎があるとはいうものの、大津皇子の死とはあきらかに違います。
 大津皇子は、父天武天皇の死から一ヶ月以内に謀反の罪ありとして処刑されます。これは、大津皇子に後を継がせたくない持統天皇の陰謀だと言われています。
 持統天皇の子の草壁皇子が皇太子になっていたにもかかわらず、大津皇子に皇位が継承されそうな情勢にあったのです。
 天智天皇と天武天皇は兄弟ですが、一説によると二人は父親が違い、天武天皇の方が二歳年上だといいます。母は大海人皇子(天武)を連れて舒明天皇の皇后となり、中大兄皇子(天智)を生み、夫の死後女帝となったというのです。
 ところが、大海人皇子の父に関しては記録がとぼし過ぎます。
 私は、天武天皇の父方は新羅系ではないかと思います。そして、天智天皇の方は百済系なのです。
 半島で新羅と百済が争ったように、日本においても渡来系の人達による勢力争いがあったと見るべきではないでしょうか。
 大津皇子は父の期待もあったようですが、新羅系の人達がバックアップしたのでしょう。皇子と共に処刑された人に、新羅沙門行心(しらぎしゃもんぎょうしん)という人がいます。これによっても新羅系がバックとは考えられないでしょうか。
 天智天皇は自分の娘達を次々と大海人皇子の妻にします。それは、天智天皇には男子が少なかったため、もし自分の死後、大海人皇子に皇位が移ったとしても、自分の血筋が残るように考えたのではないでしょうか。その意志を継いだのが持統天皇ということになります。
 だから、大津皇子以後、天武系の皇子達に不幸が続くのです。

 宮内庁楽部の豊英秋先生からお聞きした話を記します。
 豊家の先祖は大津皇子に始まり、皇子から何代か後に豊原姓で楽師として宮廷に復帰したとのこと。「大津皇子は持統天皇の陰謀で殺された」と仰って怨みの気持がおありのようでした。豊の一字になったのは明治からで、それまでは豊原姓だったとのことです。
 今も昔のことを怨みに思う人がいるのですから、当時災があれば「たたりだ」と言い立てる人もいたことでしょう。
 草壁皇子は病弱だったようですが、皇太子でありながら皇位を継ぐこともなく、父の死後三年足らずで亡くなります。これを「たたり」と言わないはずはないでしょう。

 梅原先生は、大宝律令と古墳の絵を結びつけています。しかし、日月、星宿、四神の図が儀式の装飾に使うように法令化されたからといって、それ以前に使われることはなかったと言えるでしょうか。
 私は、40年も画家の道を歩いた人だから言わせてもらいます。「法律で使うことに決めたから、描きなさい」と言われても、何の資料もなしに描けるものではありません。描ける画家がいたから公式化出来たのです。
 壁画の元になっている思想と絵は中国に始まり、高句麗や百済の古墳にも描かれているとのこと。白村江の戦以後、百済や高句麗からの亡命者が多数渡来しており、同行した楽師の子孫は今も楽家として続いています。
 絵師もいたと思うのが順当であり、彼等の技術を眠らせておくはずはありますん。絵を見たから、それを公の場にも使うことにしよう、となるはずです。
 だから、古墳の絵は大宝元年以後に描かれたであろう、とは言えないと思うのです。

 梅原先生は、万葉集に弓削皇子を追悼する歌が多いことを取り上げておられますが、私は逆です。
 和歌には鎮魂のはたらきがあると言われています。供養が足りないから歌で供養し、人々の心に故人の怨みを思い起こさせてやろう、と願うわけです。「供養の足りないこの人ぞ哀れ」と歌ったのではないでしょうか。
 高松塚の名の由来は、その塚に松が一本植えられていたからとのこと。そして、弓削皇子の松を歌った和歌とを結びつけています。これについては私も異論の言いようがありませんが、悔しまぎれに言うならば、我家の墓にも松の大木が一本生えております。

 推理はドラマであり、学説ではありませんのでお許し下さい。  
                             2004.12.13

  
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