雅楽と歴史 W
 
  


 
12.高麗楽が由来不明の由来
 伝えた楽家が続いているのに、由来は不明というのは腑に落ちません。
 高麗楽を伝えたのは、高句麗から渡来した狛(こま)姓の人達であり、楽家の芝家・上家・窪家の祖であることは知られております。狛姓の人達が伝えたから「こま楽」と呼ぶのは納得出来るとしても、なぜ「高句麗楽」ではなく「高麗楽」なのかが疑問です。
 関東にある高麗(こま)神社は、日本に亡命した高句麗王を祭神としているというのに、なぜ高麗神社なのか。
 高句麗という言葉をことさら伏せようとしているとしか考えられません。
 誰が、何のために。
 それは、当事の天皇家が高句麗に関して知られては困ることがあったのです。
(A) 高句麗の人達はいつ渡来したか
 天智天皇のとき、朝鮮半島で「白村江の戦」というのがありました。唐が朝鮮半島へ進出するために、新羅と組んで高句麗と百済を攻めました。日本は百済へ援軍を送ったのですが、白村江の戦で唐軍に敗れます。
 このとき、百済からの亡命者を(数千人ともいいますが)日本の軍船に乗せて連れ返ったとのこと。
 百済の人達は優遇され、貴族は政府高官になって唐に対する防衛のための築城と律令国家の形成に従事します。宮廷に仕えていた楽師や絵師や職人なども同行したことでしょう。 そして、百済が敗れてから5年後、高句麗からも王を始め多くの亡命者が来ました。
 高句麗王を迎えた天智天皇は、自分の姓を名乗ることが出来ません。
(B) 天皇家の祖が朝鮮半島にいた頃
 天皇家の祖は高句麗王の出城を治める王でした。姓をイニシアルでKといいます。
 高句麗は国名を何回か替えていますが、いずれも高(こう)という姓の王が治める国でした。この話は、高句麗の前の抹余国と称していた時代の話です。
 Kは抹余王の一族ではなく、かつて中国の殷の紂王に仕えており、殷が周に代わったときに抹余国に来て抹余王に仕えることになりました。何代か後に、出城の平壌城主が空席になったとき、城をまかされて王の位をもらいます。
 平壌は抹余王の離宮だったとのことで、平壌が高句麗の主都になったのは、中興の祖高朱蒙が国名を高句麗に替えたときからです。高句麗の前身はツングース系の狩猟民族ですから、古くは山岳地滞が本拠地だったのです。 Kが平穣の城主だった頃、抹余の支配下にあった豪族が独立しようとして反乱を起こします。豪族の名はソシモリといい、<8.舞楽「そしまり」>で記したとおりです。
 このソシモリを成敗に出向いたのがKであろうと私は推測します。ソシモリの領地は、平穣の東方の日本海沿岸に続く地域ですから。 これが高天原のスサノオ追放劇だと思うのです。高天原は北朝鮮ということになります。 時代が移り、中国で秦王朝が滅び漢王朝が出来た頃のこと。
 漢は蒙古(匈奴)を攻め、蒙古の一部族が追われて平穣城に亡命します。ところが、蒙古の族長は恩を仇で返し、王を追放して城を乗っ取ってしまいます。
 追われた王の行方は不明です。
 この、平壌城を追われたKという王こそ天皇家の先祖ではないかと、私は推理します。 日本へ渡ってニニギノミコトと名乗ります。そして、ソシモリことスサノオノミコトの造った出雲王朝に対し、過去の身分を口実に国穣りを要求したのです。
(C) 高句麗王が渡来しました。
 高句麗王が自国の歴史を語り、日本へ渡った人達のことを語り、などして天皇のルーツがわかったならば、天皇が国穣りを要求される立場になってしまいます。
 高句麗の神話を記します。
 「天帝の息子が三種の神器を持ち、衆三千を率いて白頭山に降り立った‥‥‥」
 三種の神器とは、剣・鏡・鈴(鈴のかわりに曲玉という説もあるという)、白頭山は北朝鮮と中国の国境にある最高峰、そして土地の豪族(神話では河の神)の娘を妻にして国を造った、と続きます。
 蘇我政権を倒したばかりのときに、このような話をされては困ります。
 結局、高句麗王は一亡命者として扱われることになります。
 人々は関東に送られて、駿河・相模・甲斐・下野・常陸・上総・下総などに分散されます。そして50年後、今の埼玉県飯能市に土地が与えられて集められます。1800人ほどの人達が未開地を開墾して暮らすことになり、高麗(こま)郷と呼ばれます。
 高句麗王は死後祭神となり、王の子孫が宮司を務めているとのこと。神社名は高麗(こま)神社、祭神は高麗(こま)王若光(じゃっこう)となっています。
 高句麗とは言わせないのです。
 韓国では、高句麗と高麗を同一に呼ぶことは絶対にありません。存在した時代も、治めた地域も、王家の血筋も全然違うのですから。 高句麗から同行した楽師は、奈良に住居を与えられ、興福寺の楽人として仕え、やがて宮廷楽師となって今日に至っているのはご存知のとおりです。
 しかし、「こま楽」の由来や高句麗の話を語ることは許されなかったのです。

 天皇が雲の上に居て欲しいと願った時代は終っていますので、氏族としてのルーツを探ってもよいのではないでしょうか。
 日本の歴史をしるために。
                           2005.2.9

13 「宮内庁楽部に女性がいないのはなぜ」に私も一言

 昔の政治を祭政一致といいましたが、正しくは「祭政軍」です。軍の存在が男社会を造るのです。
 軍は戦うだけと思ってはいけません。軍が戦地に滞在するときは、生活の大半が戦地にあるということです。炊事・洗濯・医療・馬の世話・武具の修理・物資の補給、思いつくまま上げて下さい。それらの事務処理や各部署の統率が必要です。
 戦に勝って政権を得て都を築きます。軍を指揮した人達は地位と領地を得ます。臨時の兵は村に帰されますが、都に残る兵もいます。都には戦地以上の事務雑務があります。それらはみな男の仕事です。
 領地を与えられなかった役人には給料(禄)が支給されます。楽師も宮中に雇われていますから、禄が支給されます。どれくらいの禄かというと、身分による差はあるとしても、楽家の一族と家来を養うだけ与えられたようです。
 そのため、音楽の才能のある者を楽師として送り出さなければならず、一族の中からふさわしい者が当主になったとのこと。
 このように、楽師も男社会に就職していたのです。
 女性で宮中に出仕する人は貴族豪族の子女ですから、給料はいりません。これが当時の男女の差です。
 殿上人(でんじょうびと)又は堂上人(どうじょうびと)は、天皇の御座所(紫宸殿・清涼殿)に上がる三位以上の人です。清涼殿は天皇の居間であって、寝所・食堂・接客の間その他があります。当然ながら、食事等の側近のお世話をする人も上がらなければなりません。この側近を蔵人(くろうど)といって、四位・五位・六位の中から選ばれ、この人達も殿上人と呼ばれたとのこと。
 源氏物語に頭中将(とうのちゅうじょう)という人がいます。実在かどうかは別として、中将は近衛次官という意味で貴族出身でないとなれません。蔵人の長官を頭(かみ)といいます。頭中将は蔵人を兼務していたようですから頭は姓ではなく役職名かもしれません。
 源博雅は実在の人物で、古書に「正四位下左近中将」という記録があり、後に三位に昇進していますから、大将(長官)になったことでしょう。この人は醍醐天皇の孫とのことで、源氏姓の中でも皇族の色が濃かったはずで、蔵人を兼務していれば中将のうちから昇殿していたはずです。
 このように昇殿を許された人達の雅楽を「堂上楽家」と呼び、儀式にも参加したとのこと。
楽師は地下人(じげにん)と呼ばれますが、祭事に携わる重い役職ですから身分は低くありません。楽長クラスで正四位上といいますから、1ランク上がれば水戸黄門と同じです。中級の楽師で五位ですから大名並みです。
 楽師の人数が増えたときに、近衛武官に転属された人達もいたとか。正五位下左近衛将監(さこんのしょうげん)・従五位下右近衛将監・正六位上右近将監という官位を持つ楽師の記録があります。舞楽で武官の装束を着ることもありますから、近いといえば近いわけです。宮廷武官は儀仗兵のようでもありますし。
 このような楽師は「地下の楽家」と呼ばれたとのこと。やがて三方楽所と呼ばれる地下の楽家が儀式の主流になり、現在に至ったということです。
 現在、宮内庁楽部以外の雅楽は、男女混成が珍しくありません。しかし、「五節舞」だけは男が舞うことはありません。肉体的に女性でなければ儀式の用をなさなかったからです。肉体的条件の意味は、源氏物語の中で類似例を見つけることがで出来るでしょう。

 男女の差別に関して私の思いを述べてみたいと思います。
 女性の職場進出は良いことで、あらゆる分野で可能性の追求はあって良いと思っています。しかし、「何か変だナ」と思うことも多いのです。
私は、看護婦を看護師に替えたときから、何か違うのではないかと思えてならない。かって、看護婦は「白衣の天使」と呼ばれたときがあります。天使と呼ばれる職業はほかにありますか。
 女が男社会に進出したのではなく、女の聖域に男が入って来て男名称に変えたのです。異民族が入ってきて国名を変えたのと同じではありませんか?女性の地位が上がったのでしょうか?
 男女の差別に限らず、差別を無くした弊害について考えなければなりません。その一つは、子供の「しつけ方」と「学校教育」です。差別を無くそうとして「個性」を無視していませんか。制服でさえ身長の差は配慮するでしょうに。
 「権利」について考えてみましょう。
 封建的な時代であっても、「発言権」を持つのは男であり女には発言が許されなかったーーーという時代はありません。
 女に発言権が無かったときは、男にも発言権がなかった。それは軍がすべてを支配した時代です。
 軍人が国の頂点に立つと国民は発言の自由を失います。天皇に軍服を着せてそうなりました。「祭政」が軍の支配下になってしまったのです。明治政府が軍国主義という大きな間違いをしたからです。
 戦後60年経って、男も女も発言権を取り戻したでしょうか。おしゃべりは発言ではありませんよ。話し合いのルールが身につきましたか。話し合いの場を得ていますか。通達だけではありませんか。質問が許されていますか。あなたの発言の是非を誰が判断しますか。上手な口げんかが出来ますか。
 もう一つ、「選択の自由」について考える必要があります。
 キリスト教の人達から聞きました。
 「神が人を造ったとき、人に選択の自由を与えた」と。
 そして、イブが選択を間違えて以来、人類は「選択の善し悪し」を判断しなければならない課題を背負ったのです。自己責任だけの問題ではありません。
 子供に選択の自由が与えられて家族が分裂する例もあります。選択の自由がないまま育ち、家庭崩壊を招く場合もあります。
 「それとこれとは違う」と言うでしょう。それとこれとの違いが差別です。それとこれの違いは「条件」の違いです。
 男と女は肉体的条件が違います。男同士女同士であっても条件の違いはあるでしょう。勉強が出来ても仕事が出来ても協調性が問われることもあるでしょう。それが「条件」というものです。
 そして、伝統を守るというのも条件の一つに入るのです。条件が変われば伝統も変わります。
                               2005.6.10

  14 盤渉調「白柱」に思う
この曲は葬式用の曲ということもあってか、公演のレパートリーに加えられることは少ないようです。しかし、私は白柱こそ雅楽の最高傑作だと思っています。
 笙だけ吹いてもどうという曲ではありませんが、合奏をしてみるとこれ程美しい曲があるだろうかと思う。もちろん演奏のレベルにもよりますが。
 音の広さは数十人のオーケストラに匹敵するほどで、千三百年も前に作曲さてたというから、なお驚きです。
 音に幅があるということは合わせるのが難しいのはいうまでもありませんが、精神性の高さも要求されますから、気持ちにおごりのある人はダメです。
 このような素晴らしい曲が世に知られるようでなければ、雅楽が普及したとは言えないと思います。
 葬式用だからと敬遠する人のために言います。雅楽はすべて儀式用の曲であり、コンサートは儀式用の曲を一般公開するのだと思って頂きたい。
 「白柱」は文武天皇の御作とのこと。文武天皇は、天武天皇と持統天皇の孫で、満14歳で天皇になり在位10年で死去しています。
 文武天皇の成した大仕事は、藤原不比等らに編纂させた「大宝律令」であり、雅楽寮を設け渡来音楽を整理して宮中儀式に適した楽舞にしたことだといいます。
 この時代にも楽制改革があったわけで、新曲も作られたのです。文武天皇が素晴らしい作曲家であったのか、誰かの作を天皇名義にしたのか、それはわかりません。
 ただ、天皇の即位のように新しさを求める儀式には新曲が作られますが、死者のために作曲されるのは特別な例だと思うのです。在位中に祖母持統上皇がなくなり、そのための曲か、あるいは過去のたたりを恐れた追悼の思いか、あれこれ想像したくなります。
 平安時代の仁明天皇の楽制改革が「たたり鎮め」のためであろうと別文で記しましたが、文武天皇にも同様の思いがあったのではないか、と考えるのは考えすぎでしょうか。
 通常の葬儀ではこれ程の改革はしないでしょう。それがいかなる権力者の葬儀であったとしても。むしろ、偉大な為政者に対しては「たたえる」という意味の曲作りの方がふさわしかろうと思うのです。
 では、誰の「たたり鎮め」かと考えた場合、別記「高松塚古墳の主は誰」で記したように、大津皇子に対する鎮魂であろうと私は想像します。
 その後は、曲の美しさゆえに通常の葬式用の曲として伝えられたのでしょう。
 曲の由来はともかく、この曲が広く知られるようであって欲しいと願います。
                                   2006.2.10

  15 輪台・青海波の故郷
  NHKテレビのシルクロード特集を見ていたら、輪台という遺跡を取り上げていた。 
 天山南路に沿ってクチャの西、アクスの東あたりのように思えたけれど、歴史地図にはクチャの東にあるので、どちらだろうと思う。 砂漠になっている平地が居住地で、城は小高い丘の上にある。城はさほど大きなものではなく、ここの人々は西から来た民族に滅ぼされたのだという。
 想像ではありますが、男達は城で敵と戦い女・子供・老人は東へ逃れたものと思う。逃れた人達は故郷を偲び、輪台青海波の舞曲が出来たのでしょう。
宮内庁楽部の解説によると、輪台・青海波は「中国の西域(中央アジア)の地名を曲の名としたもので・・・・・」とあり、輪台城があったことがうなづけます。
 さて「青海波」ですが、タクラマカン砂漠は昔は海だったのです。四方を山に囲まれた湖ですが、塩分を含んでいるため海と言います。
 遠い昔、海底が隆起して海と陸が入れ代わったとき、海水を持ち上げて湖になったのです。このような湖は、日本にも世界にも沢山あったようで、今もあちこちにあります。
 シルクロードと言えば砂漠、というイメージが強いため、海という発想は出にくいでしょうが、海を示す産物や舟の存在を示す資料もあるのです。
 古い時代からシルクロードの産物が中国に届いていたようですが、全盛期は隋唐の時代です。隋唐になると舟は使われていないようで、海が浅くなったのでしょう。
 海から砂漠になって行く過程を説明します。 周囲の山から流れ込む川が土砂を運び込み、長い年月をかけて堆積し湖が浅くなります。水は地下水となって黄河の源流として地表に出るのだとのこと。
 水が沈むとき塩分を残して行きますから草木は生えません。砂漠の砂がなぜ細かいかというと、石は水分を含んでいるから石の形をしているのであり、水分がなくなると砂になってしまうのだそうです。
 タリム盆地が湖(海)だった頃は、周囲の山は緑に覆われていたことでしょう。想像して下さい。湖に霧が立ちこめ、山に向かって流れます。これが砂漠になって砂が飛んで行くならば、山は緑を失います。川は水を失い宿場は成り立ちません。
 今も残っている大きな都市は、遠くの山から流れて来る雪解け水で生活しているのです。その大きな都市から大きな都市までの距離を考えると、キャラバンの編成も変えなければならないでしょう。
 ラクダは70日も水を飲まずにいられるといますが、エサを食べずにはいられません。
 唐の時代の終わりころ、シルクロードの交易に代わって船の南方ルートが使われるようになったとのこと。この頃に、タリム盆地の砂漠化が深刻になり、交易を断念せざるをえなくなったのだと思います。
 井上靖の「敦煌」は宋代の中頃より後の話で、すっかり砂漠になっていたのです。登場する西夏という国はモンゴル族の一部族です。西夏の東にキッタン国が出来、西には今も続いているウイグル国が登場します。シルクロードの交易は、これらの三国によって続けられたのですが、三年に一度大編成でというように容易ではなかったのです。
 中国の今の地図に青海省という地名や青海湖という湖がありますが、「青海波」との関連はどうなのかわかりません。
 いずれにせよ、遠い昔タクラマカン砂漠は青い海であり、「青海波」の故郷だったのです。
                                     2006.4.13

 
16 宮内庁楽部に女性がいないのはなぜ
                      
宗教編
 宮中祭祀のルーツは、百済でもない、高句麗でもない、中国でもない、シルクロードを越えて古代オリエントまで行ってしまいます。旧約聖書の世界です。天皇はモンゴル系ですが、祭祀は旧約聖書ということです。
 日本と聖書を結びつけるには「イスラエル十部族」について知っていなければなりません。日本に渡来したと思われる十部族の概略を記してみます。もちろん他説はあります。
 ○スサノヲノミコト――朝鮮半島より出雲へ、出雲王朝の祖となる。
 ○物部氏――南方から出雲へ来て後、ニギハヤヒに同行してヤマトへ入る。物部神道として宮中祭祀につき蘇我氏と争う。
 ○久米氏――南方より渡来し、南九州に定住。神武天皇に従軍する。
 ○秦氏(秦の始皇帝がユダヤ人という説であれば)――族長が聖徳太子の側近になる。
 ○中臣氏――南方から九州の宇佐へ。大化の改新を助け中臣神道として宮中祭祀につき、藤原政権に至る。
 天皇を支えたのは、武力と祭祀であり、古くは祭祀の長が武士団の長だったのです。南方からというのは、「鉄の道」と関連しているのです。
 @ 国譲りとは何か
 古事記の序文は道教の思想であり、天降りのストーリーは高句麗の桓檀古記(かんだんこき)を手本にしているようです。
 古事記は、物語が歴史の順序になっていませんので、国譲りの時代を神代と思わないことです。
 ○ニニギノミコトの拠点は南九州で、勢力範囲は南九州から太平洋沿岸であること。部下のサルタヒコとアメノウズメノミコトは、伊勢からヤマト(奈良県)に入ろうとしたが果せなかった。この二神は伊勢の椿大神社に祭られています。
 ニニギノミコトの妻は富士山麓王朝の姫で、母は後の時代に京都の賀茂神社の祭神になります。父は瀬戸内海大三島の大山津見神(おおやまつみのかみ)です。
 ニニギノミコトの部下の鹿島の神と香取の神は関東を従えますが、大山津見神も関東に交流がありました。この頃の関東平野は海です。
 ○出雲の神の勢力範囲は、北九州沿岸から日本海側越後まで、瀬戸内海を通ってヤマトまで、陸地内はヤマトから関東までと広いのです。出雲は、ヤマトに代官所を起きました。三輪山のニギハヤヒノミコト別名大物主神です。
 ○時代が過ぎ、朝鮮半島からミマキイリヒコイニエ(十代崇神天皇)が来ました。崇神天皇は高句麗系の王(騎馬民族)のようで、新羅を従えようとしたけれど反乱に遭って日本へ逃れたとのこと。ヤマトを拠点に日本を統一します。このことは常陸風土記で知ることが出来ます。
 古事記にあるように、崇神天皇は三輪山の神のたたりにあって日本の神々を大切にすべきことを知り、出雲系の物部神道と天孫系の伊勢神道を両立させます。
 崇神天皇の後継者は子の垂仁天皇のみで、孫の代には新羅の故地へ復帰したという説があります。垂仁天皇の子の仁品王(にしなおう)は妻とともに信州木崎湖畔に来て住みつき、子孫がいます。
 ○十二代景行天皇は出雲王朝の天皇だと私は思っています。「まきむく遺跡」は、崇神、垂仁、景行と三代の都を合わせたものではないかと思います。
 倭建命(やまとたけるのみこと)は出雲支配の建直のために各地へ出向いたのです。
 前記の桓檀古記によると、隣国では伊勢を日本と呼び、鈴鹿山脈の向こうを倭(わ)と呼んだとのこと。九州は多国籍だったようです。
 「倭」という字の意味について、ある人に聞いた話を記します。「禾(か)」は穂を垂れる穀物のこと。「女」を付けて委ねる、つまり女のように柔順で頭が低い、それに「人」を付けて軟弱な人種という軽蔑の意味だとのこと。
 倭をヤマトと読み、日本の古名のように思うのも、日本人らしい柔軟性でしょう。
 ○十五代応神天皇は神武天皇(天孫系)のモデル説が有力です。私は橿原神宮が応神天皇の都だったと思います。
 三輪神社の神職が宇佐八幡に入り、宇佐の祭神が応神天皇になったとも言われており、このことからも政権は出雲系から天孫系に移ったけれど、宮中祭祀は物部神道だったと思えるのです。
 ○蘇我氏は、物部氏との戦いに仏教徒を味方にしたのです。物部氏の迫害を受けていた彼等は「戦いに勝てば四天王寺を造りましょう」という誘いに応じて集まったのです。
 そして、その仏教徒の総代が秦(はた)氏であったとするならば、舞楽「蘇莫者」の謎も、山背大兄王の死の謎も解けます。
 尚、蘇我政権下の宮中祭祀は卜部氏と中臣氏です。
 しかし、物部信者と仏教信者の争いは断えなかったようで、それにけりをつけたのが大化の改新です。
 ○宮中祭祀は中臣神道に代わり、宗教争いを避けるために神仏習合が進められます。物部神道は中央から出雲へ帰され、これが宗教上の国譲りです。
 こうして中臣神道と藤原政権の時代が始まるのですが、さっそく「たたり」が起こりました。大津皇子のたたりであると私は思っています。
 文武天皇の大宝元年(701)に「大宝令(たいほうりょう)」が施行され、鎮魂祭が行われたとのこと。
 雅楽の盤渉調「白柱」が作曲されたのは、そのようなときでした。
 鎮魂は、タマシズメ(魂鎮め)とタマフリ(魂振り)の二種の意味が一対になっており、鎮めるだけでなく振るい立たせるのです。道教の自然観「陰陽二元論」が元になっているとのこと。招魂(みたまふり)といって衰えた魂を活性化させる祈りもあるといいます。

 A神道とオリエント
 ○スサノヲノミコトを牛頭(ごず)天王と呼ぶ例があり、オリエントの牛崇拝を連想します。
 ○スサノヲにまつわる蘇民将来という信仰がありますが、出エジプト記に似ている話です。
 ○茅の輪くぐりはオリエントの風習です。 イスラエルに「死者のたたり」という信仰はないのですが、出雲で暮した人達が縄文時代以来の「たたり信仰」を受け入れました。
 天孫系も、この「たたり信仰」を否定することなく出雲を黄泉(よみ)の国として、イザナミノミコトが出雲の地に葬られたという物語にしました。
 以下イスラエル語の解説は「日本へブル詩歌の研究」神学博士川守田英二著から引用します。著者は、日本語の中から古代へブライ語を千二百語以上探し出したとのこと。「ヘブライ」は移民という意味で、遊牧民だったからでしょう。
  イザ――救い拾え
  ナギ「ナギイド」――指導者
  ナミ「ナオミ」――慰め
 これを組み合わせると。
  イザナギ――指導者的救い主
  イザナミ――慰めによる救い主
 という意味の呼び名になります。
 日本民謡のはやし言葉は、ほとんどヘブライ語で訳すことが出来るといいます。それらは、神武天皇を讃える歌や、従軍した兵士が士気を高めるために歌った歌のようです。
 神武(応神)天皇は、神話の山幸彦の子(子孫)であり、九州の部族を従えた上でヤマトへ向かった。その通過地は鉄器製造の地であると言う人もいます。
 「イハレ コノー エーン ヤハラー ヤーエー イハレ コラー サノ エーン ヤハラー ヤーエー」
 イハレヒコ(神武天皇)はヤーエー(エホバ)を信奉している。サノノミコト(前の名)をイハレヒコに改名なさってヤーエーを信奉している。
 この歌は、天皇が従軍した兵士の信仰を受け入れたことを意味します。
 ヤーエー(ヤハウェヘー)が動詞化すると「イハウエ」となり「祝ヘ」「祝フ」「祝ヒ」などと変化して神の行事を意味するのだといいます。
 「アラマー」――何のためだろう。
 さらば「サラマー」――平安を祈る。
 へとへと「ヘトヘト」――恐怖のために弱り込む。
 「コラコラ」――怒っている。不気嫌だ。
 チョイチョイ「チョイル・エ・チョイル」――少しずつ。
 そろそろ「ソロソロ」――静かに、ゆっくりと。英語のslow slow
 「ハッケー」――汝撃つべし。
 「ヨイ」――やっつけろ。
 「ノコッタ」――汝打ち破りぬ、相手を。
 「ドスコイ」――蝦夷を踏み破れ。
 参る「マヘル」――急に応じて赴く。
 神楽「カグリヤー」――エホバの祭典。
 寿(ほ)ぐ「ハグ」――祭典をすること。
 祢宜(ねぎ)「ネギ」――祭司。
 幣(ぬさ)「ヌサ」――罪けがれを隔絶せしむること。
 八百万(やおよろず)「ヤオヨラド」――「ヤーオ(エホバ)」の「ヨラド」産み給いし。
 八咫(やた)「ヤダー」、八幡(やはた)「ヤハダ」――感謝、讃美、偉大。ユダ、ユダヤも同じ。宇佐八幡の宇佐(ウサ)は北朝イスラエルの地名とのこと。
 晴れる「ハレル」――栄光あれ、太陽の輝くこと。「ハレルヤー」ヤーウェに栄光あれ。
 贖う「アガルナウ」――吾、身受けす、汝を。
 「ツマラヌ」――我らにとりて不浄なり。
 著者の解説を容約すると。イスラエルの民には不浄という理由で食べてはいけない動物が数々ありました。しかし、日本でそれを守るためには限りがあり、やむなく先住民と同じものを食べることになります。そこで、年二回の贖いの儀式をすることによって神の許しを願ったのです。

 B 大祓(おおはらえ)の儀式
 神社で行われている年二回の儀式です。
 大化の改新の後、文武天皇の時代に「大宝令」が施行され、中臣祓(なかとみのはらえ)によって六月と十二月の晦日に行われるようになりました。
 この儀式で使われる祝詞(のりと)は、中臣の祝詞と言ったのですが、平安時代延喜年間の儀式制定から大祓詞(おおはらえのことば)と言うようになったとのこと。
神道の解説書(「神社神道講話」小野祖教著ほか)には、罪、贖、和解などの言葉が何度も出て来ます。聖書レビ記の翻訳かと思います。
 不浄という理由で食べてはいけない動物、魚、鳥、昆虫、爬虫類などその数は沢山ありますし、聖書には覚えきれないほど沢山の約束ごとがあり、そのために「虎の巻」がありました。前記の川守田英二博士によると「虎」は「トーラー」で聖書のことだといいます。
 大祓の儀式には、元は「悪しのはらえ」と「善しのはらえ」という二つの儀式が行われ、聖書の贖の儀式と和解の儀式に相当します。これだと供物が二重になるため、後になって一つの儀式にまとめられたといいます。
 大祓詞の中には「草や木と語り合ってはいけません」いとう自然崇拝を禁じた言葉があります。
 「天津祝詞の太祝詞事」という言葉もありますが、解釈は諸説であって謎です。

 C 男社会と差別
 聖書で人を数えるときは男性だけです。それは兵士になることが出来る者、という前提ゆえにそうなるのです。聖書中の「人」は「男」だそうです。
 エジプトを出たイスラエルの民は、目的地へ着くまで四十年かかっています。武器を作り、兵士を育て、戦意高揚の信仰を教えなければなりません。他民族と戦わなければ土地が得られないからです。
 神の加護で勝利が得られるストーリーではありますが、勝つための戦略を見逃すことは出来ません。聖書は兵法の書でもあるのです。 もう一つの差別は部落問題です。聖書を読んでいて気になったのは、部落民の名称に類似した名称が頻繁に出て来るからです。それらは、イスラエルの民が居住地を得るために戦わなければならない部族であり、その敵対心が日本に於ても現われて、先住民との対立が差別になったのでしょう。
 イスラエルの地名・人名が日本で多数使われているとなれば、そのようなことも有得たでしょう。(地名は、北朝イスラエルの地名に限られ、南朝ユダヤには皆無とのことです。)
 自分から差別の道を選んだ人達もいました。宗教が政治と結びつくと本来の信仰にズレが生じます。自分達の信仰を守るべく、東北へ移住した人達もいたようです。
 人には純粋性を保ちたい心と、生活環境に順応して行く心とがあるのです。
 天皇が男系というのは差別でも伝統でもありません。成行です。皇室典範は明治政府が作ったもので、それも明治の成行です。
 男の天皇が多い理由。
 平清盛は娘を天皇家に嫁がせ、産まれた子を天皇にしました。
 天皇が登場した当初から、豪族らは自分の娘を天皇家に嫁がせています。豪族(貴族)らにとって、男子を婿入させるのと女子を嫁がせるのと、どっちが有利でしょうか。
 女帝もそのときの成行です。
 花が咲くのも散るのも成行です。
                                 2007.5.27

 
17 舞楽「蘇莫者」について
 宮内庁楽部の解説には「作者、年代は不明」とあります。作った楽家が続いているのになぜ。
 聖徳太子が山道で笛を吹いていると、山神が現われた、というストーリーです。山神の姿や舞の仕ぐさからすれば「うらみ」を持っているようであり、太子の笛で「鎮め」られているように感じられます。
 笛を吹いた場所から察して、山神は葛城山の一言主神(ひとことぬしのかみ)別名言代主神(ことしろぬしのかみ)でしょう。一言主神は、葛城山系の東側に住む葛城氏の守護神で、出雲の大国主神の子だといいます。
 葛城氏はひと頃ヤマトで一番の権勢だったとのこと。仁徳天皇の皇后は葛城の姫で、気位が高く嫉妬深かったことが古事記に書かれています。それから五代後の雄略天皇によって葛城の当主は成敗され、後継は土佐へ追放されます。
 時が過ぎ、葛城氏の分流の蘇我氏が力を取り戻し、一言主神は葛城山に復帰します。
 蘇我は「我は蘇えり」であり、蘇莫者は「蘇えるなかれ」です。この曲を作った人は、蘇我の守護神に蘇えるなかれと言っているのです。
 蘇莫者は四天王寺のオリジナルですから、作者は東儀家の先祖ということになります。四天王寺は、なぜ建立のスポンサーである蘇我を恨むのか、聖徳太子がなぜ慰め役になるのか。
 聖徳太子と四天王寺の関係は知られている通り、物部氏と蘇我氏の戦いのときの戦勝祈願によります。これが仏教徒を味方にするための方便だったとすればいかがでしょうか。 後日、太子の側近になった秦河勝(はたのかわかつ)が、この戦いに兵を率いて太子を守護したといいます。秦河勝は東儀家の先祖とのことで、太子と四天王寺と作曲者がつながります。
 東儀秀樹氏のホームページによると、秦河勝は太子の死と同時に播磨の別宅へ身を退いたとのこと。太子の毒殺説が裏付けられます。河勝も身の危険を感じたのです。
 聖徳太子は秦河勝の中国貿易に力を貸していました。遣隋使は国の使節ですが、秦氏は民間貿易です。秦を「はた」と呼ぶのは機織(はたおり)の「はた」であり、絹織物を輸出していたのです。
 朝鮮半島との国交に力を入れていた蘇我馬子と別かれて斑鳩へ移ります。随がシルクロードを確保した時期ですから中国の方が利があります。斑鳩の鳩が飛鳥の飛ぶ鳥を落とす勢いになります。馬子は太子の力が皇位継承に及ぶことを恐れて毒殺したのです。
 太子の存在を軽んずる説もありますが、軽い存在をあえて抹殺することはないでしょう。もし、このとき山背大兄皇子(王)(やましろおうえのおうじ)まで殺せば「太子夫妻は中毒死」と言い逃れられなくなり、太子一家をバックアップしている勢力と戦わなければならなくなります。
 馬子は年老いており自ら戦陣に立つことは出来ません。年の離れた弟の境部摩理勢(さかいべのまりせ)は太子一家に味方しているし、蝦夷(えみし)は戦うタイプではない。入鹿(いるか)はまだ若くて統率力を持っていない。毒殺が精一杯でしょう。
 太子死(49才)の二年後、馬子死。その二年後、推古女帝死(75才)。
 主人を失った秦氏ではあっても、後継の山背大兄を支える望みがある間は「うらみ」を表わすことはないのです。山背大兄は京都の秦氏に育てられたから「やましろの皇子」です。太秦(おおはた)は秦氏の本家という意味で、(うずまさ)はたぶん地名でしょう。
 その山背大兄が蘇我入鹿の差向けた兵のために死を選びます。五十才だったとのこと。太子の死から二十一年後です。生みの親の家と育ての親の家が戦うのを望まなかったのでしょう。妻子や孫まで道連にはしなかったであろう、という説に私も同意します。
 東儀と名を変えた秦氏は「蘇莫者」の舞曲を四天王寺に奉納します。「蘇えるなかれ」と蘇我氏を「のろう」のです。しかし、聖徳太子一家も蘇我氏です。相反する思いを込めて、山神が太子に救いを求めるというストーリーにしたのではないでしょうか。太子の笛は、太子自身への鎮魂でもあるのです。
 このように、舞楽蘇莫者には「のろい」と「鎮魂」の二律背反の祈りが込められているように思います。
 山背大兄の死から一年半後、入鹿は中臣鎌足・中大兄皇子によって殺されます。「のろい」の効果が出るにしては早すぎます。入鹿は、中臣派に「はめられた」のではないかと思う。
 入鹿の死によって、藤原氏は入鹿のたたりを恐れるとともに、蘇我氏の政権復帰を阻止したい思いになるでしょう。だから、藤原氏の「鎮魂」には、太子をはじめ蘇我一族を法隆寺の中に「鎮め封じたい祈り」があるのではないでしょうか。
 秦氏の「鎮魂」には太子一族への供養の祈りがありますが、権力者との間にズレが生じたならば、曲の由来は語りずらくなるでしょう。
                                2007.6.22

18 笙の銀金具あれこれ

 先生から「昔は金より銀の方が価値があったんだよ」と聞きました。
 昔、銀本位だったのはシルクロードの交易が盛んだった唐の時代に、中東のある民族が交易の中心的役割を果たしており、その民族の通貨が銀だった。そのため銀で価値が決められたとのことです。
 ガルブレイスの「経済学の歴史」を読んで、金本位制になったのはインカの滅亡に関連していると知りました。
 インカについては子供の頃より関心があり、あれこれ知識を得ていたのですが、どうしても腑に落ちないことがあり、それがわかるまで年月を要しました。
 知り得た知識をつなぎ合わせてみます。
 インカを征服したピサロはスペインを追放されたユダヤ人だといいます。
 インカが敗れたのは鉄砲と弓矢の違いだと言う学者もいましたが、夜襲をなぜしなかったのであろうという疑問が、私には長いことありました。相手を眠らせないだけでも効果はあったであろうにと。
 インカは宗教的な理由で夜は戦わないと、後になって知りました。
 ピサロ側の弱みは、弾丸に限りがあるということです。インカはそれを知りません。
 インカの方には、このとき戦いを望まない理由がありました。王位を兄弟で争い、やっと兄が勝ったばかりで、人々は疲れていたのです。
 ピサロは、インカの中から内通者を探し出して、王の隠家をつきとめます。
 捕えられた王は、隠れていた室を自分の手が届く高さまで黄金で埋めて、差上げるから助けてくれと命ごいをします。
 黄金を手に入れたピサロは、約束を守らず王を殺します。
 ピサロは、黄金をスペインに持ち帰り、王に献上します。
 ガルブレイスは、世界が金本位制になったのはこのときからだと言います。
 ピサロは見返りに何を要求したでしょう。ガルブレイスは、そのことには触れていません。
 私は武器の売買権だと思います。それまで、武器の製造はどこの国でも支配者の直轄でした。
 スペイン王は黄金に動転して、うかつにも危険な権利を許してしまったのです。武器商人が登場したのは、このときからだと思うのは間違いでしょうか。
                          2007.10.3

19 舞楽「皇仁庭」より

 十五代応神天皇が、皇子たちの家庭教師として、百済から王仁(おうにん)という学者を招きました。皇仁庭(おうにんてい)は、その王仁にゆかりがあるとのこと。
 王仁は、渡来したとき教科書として論語と千字文(せんじもん)を持参したといわれ、十六代仁徳天皇は王仁の教えを受けたのです。 千字文は四字熟語を千字集録したもので、天地創造に始まり人格形成に至る倫理の書です。
 書道を勉強する人のお手本になっていますが、一般にはあまり知られていないようです。
 その中に誰でも知っている言葉が一つだけあります。「夫唱婦随」です。
 雅楽に関する言葉も一つあります。「律呂調陽(りつりょちょうよう)」季節に応じた奏楽によって、陰陽の気候が調うという意味です。
 笙の楽譜に書かれている東儀文禮先先生の序文の中に「礼記(らいき)」の一文があります。これも雅楽の効能を示すものです。
 雅楽を聞くと不和がなくなり、社会や家庭に秩序を取り戻すことが出来るというのです。
 このような結構な雅楽が、もっと普及して欲しいと思います。
 中国の雅楽と日本の雅楽の違いはあるとしても、自然に対する祈りや人の和に対する祈りには共通点があるでしょう。この場合の中国雅楽は宗教雅楽のことです。
                         2007.12.3
20 中臣と藤原の違いについて

 学校の歴史では「中臣鎌足が藤原姓を賜り、藤原氏が政治を中臣氏が神事を司ることになった」と学びました。
 私は別項で、中臣氏は古代イスラエル人であろうと書きました。しかし、藤原氏がイスラエルの系統だと思えない疑問があるのです。 それは笙の吹口(ふきくち)です。
 私が最初に手にした笙の吹口は、一般の笙と同じ長さの吹口でした。
 それだと私の鼻がつかえるので、自作は長目に作ったのです。
 正倉院の笙は長い吹口がついており、それをはずした状態で作り伝えたのかとも思いますが、吹きずらければ長さを変えることも出来たはず。
 平安時代初期の楽制改革によって楽器の形体や編成が整えられたといいますから、今の笙はその頃には形が決まっていたのでしょう。 楽制改革を推進したのは藤原・橘といった貴族ですから、その人達の体型に合わせているだろうと思うのです。
 奈良時代の始めは中臣氏が宮中祭祀を司っていたのでしょうが、平安時代になると中臣氏の存在が見えなくなります。
 平安時代は藤原氏の同族支配ですから、中臣氏は遠ざけられた、つまり別種族だったということになります。
 歴史を研究する人の中にも、中臣と藤原は別人であろうと言う人はおります。
 宮中祭祀は中臣流を残しながら藤原流になって行ったのです。
 などと考えてしまうのですが、どうでしょうか。
                       2008.4.30

21 平家はなぜ短命だったか

 源平をテーマにしたドラマは多々ありますが、平家がいかにして富者になったかについてはあまり知られていないようです。
 山本七平著「日本人とは何か」で知ることが出来ました。
 中国は金の産出が少なかったから、日本の砂金を求めた。
 平清盛は奥州の砂金を中国へ輸出し、貨幣を大量に輸入した。そのため、中国では貨幣が不足し紙幣が作られるようになった。
 当時の中国貨幣は東アジアの国際通貨で、高麗との交易に使うことも出来た。・・・ということが書かれています。
 清盛はこのようにして中国貨幣を入手したのですが、そのお金で何を買ったか。
 当時は災害が多く、米が不作になると公家は収入が減って困ります。清盛は公家の領地を抵当にお金を貨します。不作が続いて借金がかさみ、領地を手離すことになります。
 貨幣経済は土地から人を切り離すと言いますが、貨幣経済を導入した清盛が土地を手に入れるのです。
 清盛は公家の暮らしにあこがれていたのでしょう。一族が公家風になり、雅楽を嗜んで優雅になりました。
 ところで、領地を失った公家らは細々なりと存続しているのです。それは、平家を快く思わない地侍らが、公家を助けていたに違いない。
 公家らは失地回復を後白河法皇に訴えて、源氏の旗揚げとなります。
 後白河法皇には清盛をひいきにする理由があったのですが、見切をつけなければならなくなったのでしょう。
 富は栄華をもたらしますが、嫌われたら長続きはしないということです。
                      2008.5.25
  22 穂高雅楽会とは

 信州安曇野の穂高神社には穂高雅楽会がある。
 母の葬式に笙を持って行ったところ、神官の一人が龍笛を持っており、合わせることになった。平調の越殿楽を吹くと言い、上手に吹くので気持ち良く合わせることが出来た。
 次に神楽笛であろうか長めの笛を取り上げ、合わせて下さいと言う。「盤渉ですか」と言うと「越天楽です」と言う。雅楽は総てそれだけなんだと察し、吹き始めたのを聞くと、盤渉の方が良いのではと感じ、盤渉越殿楽を吹き始めた。不思議に良く合う。
 たぶん、あちらの人は平調であろうが合っているに違いない。終わってから顔を見合わせてにっこり。
 父の葬式には笙を持って行かず、神主さんが残念がったけれど、私は体を悪くしていたので仕方がなかった。
 甥の結婚式には三管で上手だった。越殿楽一曲でも用が足りるのを知った。
 舟楽がある。
 穂高神社の祭神は穂高見命といって波の穂を意味している。安曇族は天智天皇の水軍で、壬申の乱に敗れ安曇野に逃れて来た。
 海から遠くなったので山に奧社を求めたのであろう。以前は、安曇野は湖だったが、奈良時代の中期に大きな地殻変動があって水が引いて川が流れる平地になった。「龍の子太郎」の童話の元である。
 川の上流に奧社を求め、けわしい崖道を登り詰めてすばらしい景観の地に辿り着いた。上高地である。見える山を穂高岳と名付けた。 穂高岳には峰が幾つもあり、手前の峰を明神岳という。明神岳の麓には明神池という池があり、水は澄んで美しい。
 池の手前には、池の管理と登山者の休憩所を兼ねる小屋がある。池の周囲は、人が入れるのは一部であり、すれ違うのも限りがあるため自然のままであり、対岸の林が水に映って美しい。
 ここが舟楽の池である。
 私は何度もこの池を見ているが、登山者として通るだけだったので舟楽は見ていない。写真で見たのを書きます。
 舟は小さく舟頭のほか三人がせいぜい。三管で吹くからそれでよい。舟頭は腰をおろし、三人は神職の着る柄模様の装束を着て、山の方を向いて立っている。
 対岸のカラマツは黄葉しており、水に映って美しい。明神岳は人を寄せ付けないと言われ、三色の衣を着てそそり立っている。
 私の頭の中を曲が流れ、山に木霊してりょうりょうと響く。風が無いから舟は揺れない。小波さえない静けさの中に聞こえるは越殿楽。

 穂高雅楽会には、東京から三管吹ける人が年月かけて通い、丁寧に教えたのです。その後は、先輩が後輩を育てているのでしょう。 私が感じたのは、笙の音律の不思議さと、越殿楽一曲に念入りな練習を続けている人たちのすばらしさです。
 神霊に届くならば、三管一曲で充分だと思いました。  2016.7.12

   
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